パレルゴン(18)

argfm2008-04-05

 (つづき)
 モノとは何か、その答えを明らかにするために、ハイデガーはモノを省察する際に妨げとなる三つの「思索様式」を批判し、これを斥ける。
 その一つめは、物の把握の仕方を物そのものの構造へと転用することである。この「思索様式」においては、そもそもモノが見えてしまっているのに、いかにしてモノの把握の仕方をモノの構造へと転用することができるのかという問いが解決されないままに残されることになる。モノと属性(実体と偶有性)、主語と述語といった「通俗的な物概念」は、物の物的なもの(それ自体のうちに安らっているもの)を言い当てておらず、ゆえに「われわれ」は、こうした思索様式を前にしてそれは思索による「物への一種の襲いかかり」であり「暴力」であるという「感情」を抱くと、ハイデガーは言う。たとえば、「御影石の塊はざらざらしていて光沢がある」という文はモノのモノ的なものを言い当てておらず、したがって思索による暴力を持ち込んでいる。モノとは「御影石」でも「ざらざらしていて光沢がある」ことでもない。(それは思索によって与えられたものにすぎない。)「そのときひとは諸物の核について語る。ギリシァ人はこれをト・ヒュポケイメノン〔基体〕と命名したと言われる。物のこの核的なものは、彼らにとってたしかに、根底につねにすでに横たわっているものであった。しかし、諸特徴は、タ・シュムベベコータ〔付帯的なもの、偶有的なもの〕と呼ばれ、そのつど眼の前に横たわっているものと共につねにまたすでに到来してしまっており、共にそれのもとに現れてくるものなのである。」
 批判の二つめの対象は、モノとは受容諸器官において与えられた多様なるものの統一であるとする「思索様式」である。ハイデガーによれば、モノと諸感覚を切り離すことはできない。われわれにとっては、あらゆる感覚よりもモノそのものの方がはるかに近いのであり、モノが出現するのは単なる音や騒音の殺到においてではない。たとえばわれわれはメルセデスのエンジン音をワーゲンのそれとは異なるものとして聞き分ける。純然たる騒音を聞くためには、われわれはそれを抽象的に--耳をモノからそらして--聞かねばならないだろう。*1
 三つめは、モノとは形を与えられた質料であるという「思索様式」である。この〈質料-形相〉の対はあらゆる事物に適用されるまでに通用している。だが、「質料-形相-結構」は制作物一般、すなわち有用性を具えた道具にとってこそ本質的なものなのであって、モノや芸術は道具存在(有用性)に還元できるものではない。芸術作品やモノの本質は、一切の道具的なるものを引き去ったあとに残るもののことではない。たとえば、「単なるモノ」といった言い方が一種の侮蔑であり得るのは、対象がその道具存在の引き去りにあって後なお道具と見なされているからである。こうした〈質料-形相〉の対は、「あらゆる芸術理論と美学とのための概念図式そのもの」であるが、この対が芸術作品にとって本質的であるかどうかもまた、以上の理由によって疑わしい。したがって、道具存在をモデルとした「質料-形相-結構」という「思索様式」もまた、モノへの暴力である。
 以上の批判を経てのちハイデガーによって示される重要な論点とは、「思索様式の先取りと侵害とを遠ざけて、たとえば、物をその物であることにおいてそっとしておくこと、である」。つまり、モノを「あるがまま」にしておかねばならないのである。困難な課題が立てられる、すなわち、「われわれは自分自身を存在するものの方へと向けるべきであり、存在するものそれ自体をそれの存在めがけて思索すべきであり、しかも存在するものをそのことによって同時にその本質においてそっとしておくべきなのである。」そうした課題において初めて、モノとは何か、芸術とは何かという問いに道が開けるだろうと、ハイデガーは言う。
 その方途は興味深い。だがここで、一つの疑問が『返却』において提出される。その疑問とは、なるほど『芸術作品の根源』の思考過程は、「モノ」の把捉において主体が設定される前夜にまで遡ろうとするものだとしても、だとするならば、一体、件の靴に対する農民や農婦への帰属決定をどのように説明したらよいのか?という疑問である。言い換えれば、芸術作品と言説の関係における我有化を批判するその同じ論考によって芸術作品が我有化されているという事実を、どう説明したらよいのか?ということである。この疑問は正当であり、反論の余地はない。この指摘を認めるならば、ハイデガーによる「あるがまま」という語を不問に付すわけにはいかない。(つづく)


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*1:ハイデガーの説明は短いものであるため、少し補足すれば、ここでハイデガーが述べていることは、「モノ」についての知覚であり、知覚のためのシステム(主体)は対象に応じて組織・産出されると主張している点で、ゲシュタルトからアフォーダンスに至るまでの知覚心理学に近い。ゲシュタルトとは感覚の総和以上のもの、総和とは異なったものである。たとえば、要素である個々の音とは異なる秩序を持つメロディーはゲシュタルトである。字体の異なる文字の判別、崩れた文字の判別を可能にするのはゲシュタルトである。ギブソンによるアフォーダンス理論において知覚とは、われわれの身体と環境が創り出す協応構造を複数の自律したリズム間のシェーマとして捉えることである。たとえば、この隙間に身体が入るかどうかという予想が可能になるのは、知覚が身体と環境の混合物だからである。(ここで「近い」と書いた理由は、知覚心理学におけるそれぞれの理論およびその展開とハイデガーの議論を完全に重ね合わせることができるわけではないからである。)