パレルゴン(17)

argfm2008-04-03


(つづき)
 何はともあれ、まずは『芸術作品の根源』を読むことから始めねばならない。『返却』〔もろもろの復元〕を読むにあたり、デリダの語っている部分と彼が引用している部分との区別さえつかないような‘読解’に陥る危険を回避するためである。そしてまた、『芸術作品の根源』を読むことで、今日現在生産されている様々な言説の反復をそこに確認することができるからでもある。
 芸術とは何か、芸術の本質、芸術の本質の由来とはどのようなものか、『芸術作品の根源』はこう問うことから始まる。ハイデガーによれば、芸術をめぐる問いにはある種の堂々めぐり(円環・循環)がつきものである。すなわち、芸術作品がなんであるかを規定しようとするならばわれわれは眼前の作品群を比較考察することによって答えを導き出さねばならないが、同時に、芸術とは何であるかということが予め理解されていないならばどうやって考察のための事例を選出したらよいのかわからない、という堂々めぐりである。ニワトリが先かタマゴが先か、ということである。しかし、われわれはこうした堂々めぐりにとどまらねばならない、踏みとどまることこそが、「思索の祝祭」なのである、そう、ハイデガーは高らかに宣言する。何が言いたいのかはよくわからない。(とは言え、その意味するところは、後に考察の対象となるだろう。)
 さて、堂々めぐりとしての問いに踏みとどまることを決意した『芸術作品の根源』による目論見とは、アレゴリーでありシンボルであるような芸術作品の構造を描き出すことにある。そうした構造を捉えることによって、「芸術作品の直接的で十全な現実性を的確に捉える」ことが目指される。ハイデガーによれば、芸術作品は居眠りするための枕になったり(本の場合)、あっちの展覧会からこっちの展覧会へと引っ張り回されたりすることができるのだから、モノである。だがしかしそれは単なる物そのものとは何か別のものについて語るのだから、アレゴリー(寓意)である、そしてまた、作品において、製造された物(物的なモノ)と、さらに何か別のものとが結びつくのであるから、芸術作品とはシュムバレイン、シンボル(象徴)である。(ハイデガーが「シンボル」という語を用いて何を言わんとしているのかは、件の靴はもちろんのこと、後に彼自身による具体例を参照することで理解されるだろう。)ここで、後者による、この別のものとの結びつき(シンボル)をもたらすナニカこそは、「芸術作品の内の物的なもの」であり、かつ、「本来的なものが築かれる下部構造である」。ここでハイデガーは実はかなりややこしいことを言っている。芸術はたんなるモノと区別されるというだけのことではなく、単なるモノと区別されるがしかし、モノなのである。たとえば、「建築作品は石の内に存在する、木彫りは木の内に存在する。絵は色彩の内に存在する」のである。したがって、物とは何かを充分明晰に知っているときのみ、芸術作品が物であるのか、それとも何か別の物が加わっている物であるのかを言うことが可能になるだろうと、ハイデガーは書く。この点について、これから詳しく見ていくことにしよう。
 事の次第は以上である。これらの枠組みを準備して、ハイデガーゴッホの絵の前に立つ。そこに奇妙なねじれが生じてくる。(つづく) 


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