パレルゴン(20)

(つづき)
 ハイデガーによれば、作品は一つの道具がなんであるかを図解するためには役に立たない。作品においては個々の存在するものの再現が問題なのではなく、様々な物の一般的な本質の再現が問題なのである。作品においてのみ、形作られた質料ではない「道具存在」が、すなわち道具の「あるがまま」が、一つの世界が、開示される。それが「アレゴリー」の働きであり、「シンボル」が作品を結びつけるところのものである、とされる。ところで、芸術作品が開示するこの「世界」には、植物と動物は含まれない。石は無世界であり、植物と動物も世界を持たないのだとされる、なぜならそれらは環境に従属したままであるから。したがって、人間だけが世界を持つのである。*1彼が真理とは認識と事柄との一致ではなく、アレーテイア(不伏蔵性)であると言うとき、そこで主題化されているのは世界と大地の「闘争」であり、すなわち文化(「ある民族の歴史的現存在」)の栄光と失敗の歴史である。「不伏蔵性」とは、我々自身ではない存在するものへの通路を開く「空け開け」であり、「闘争」とは、世界と大地にあって、“一方が他方をその本質の自己主張へと高めること”であるが、そうした「闘争」が許されるのは人間だけである。「存在するものがよりいっそう存在するものとなること」を、ハイデガーは「美」と呼ぶ。だが、こうしたハイデガーの「思索様式」によって、絵画における真理なるものが明瞭に矛盾なく理解できるだろうか。
 西洋の思考における「基底」*2の不在は、ローマ人(ラテン語)によるギリシャ語の翻訳に端を発すると、ハイデガーは書いている。表象批判、表現批判、再生産批判であるような「基底」とは、「実体」ではない「下にあるもの」の謂であるが、これは確固たる基盤を意味するのではなく、深淵(「闘争」、「亀裂」)を意味している。「真理が一切の伏蔵的なものを免れたまったく純然たる不伏蔵性となるなどということはありえないのである」、とハイデガーは書いている。その一方で、彼は、ゴッホの絵画において真理が生起するとは、抗争する世界と大地とが不伏蔵性に到達することを意味する、とも書く。これは矛盾しているように見える。だがしかし、ハイデガーによればこれは矛盾ではない。この矛盾が解決される論理は、次のようなものである。すなわち、作品(輪郭を引くこと、枠で囲むこと)は、遮断ではなく、「不伏蔵的なものの内へと解放する」ことである。たとえば山は、その輪郭によってそびえつつ安らい存立している。ここにおいて、「思考の祝祭」の意味もまた明らかになる。つまり、深淵を開きまた縫合すること、穴を掘りまた埋めること、それが「思考の祝祭」の意味であり、作品における真理である。(デリダが『レンム』*3で批判しているのはハイデガーの欲望が「埋めること」にあるという点である。)かくして、ハイデガーは道具の「あるがまま」を思考するために、有用性を奪われ帰属不明ですらある靴の描かれた絵画の前に立ち(穴を掘り)、それを埋める(作品が開示するものを記述する)。しかし、これは本当に矛盾を解決しているのか、そのことについて考えてみよう。
 ハイデガーゴッホの描く靴から読み取った「あるがまま」とは次のようなものである。


「靴という道具の履き広げられた内側の暗い開口部からは、労働の歩みの辛苦が屹立している。靴という道具のがっしりとして堅牢な重さの内には、荒々しい風が吹き抜ける畑地の貼るか遠くまで伸びるつねに真っ直ぐな畝畝を横切ってゆく、ゆっくりとした歩みの粘り強さが積み重ねられている。革の上には土地の湿気と濃厚なものとが留まっている。靴底の下には暮れ行く夕べを通り抜けて行く野路の寂しさがただよっている。靴という道具の内にたゆたっているのは、大地の寡黙な呼びかけであり、熟した穀物を大地が静かに贈ることであり、冬の畑地の荒れ果てた休閑地における大地の解き明かされざる自己拒絶である。この道具を貫いているのは、泣き言を言わずにパンの確保を案ずることであり、困難をも切り抜けた言葉にならない喜びであり、出産が近づくときのおののきであり、死があたりに差し迫るときの戦慄である。この道具は大地(大地に傍点)〔Erde〕に帰属し、農婦の世界(世界に傍点)〔Welt〕の内で守られる。このような守られた帰属からこの道具その物が生じ、それ自体の内に安らう〔Insichruhen〕ようになるのである。」
 

 この記述が目的とするのは枠づけられた絵とは別の、その彼方にあるイメージを解読すること、すなわち可視的で直接的なものを跨ぎ越すことである。それがハイデガーの言う「アレゴリー」の意味である。この記述は主観の投影などではないと、それはゴッホの絵画によって語られたのだと、ハイデガーは書く。だが、この跨ぎこしがゴッホによる『古い編み上げ靴』(1886)という絵画の構造にその根拠を持っているとは言いがたく、この記述を件の絵画に帰し得るとするハイデガーには、彼の説明が孕んだ矛盾によっても示されるように行き過ぎがある。というのも、一方で彼はそこに描かれた靴には使用された痕跡(シーニュ)もなく、それが置かれている場所すら不明であると書いているのだから。*4だが問題は、この記述が単に彼のイデオロギーの投影、あるいはゴッホへの感情移入*5によって可能になったということにではなく、そうした記述が導き出されるまでのプロセスが、物神*6化、物象化に酷似しているという点にある。(つづく)

*1:「真理がそれによって開示された存在するものの内にそれ自体を整え入れる本質的な仕方の一つは、真理が〈それ自体を-作品の-内へと-据えること〉である。真理がその本質を発揮するもう一つの別の仕方は、国家建設の行為である。」 『芸術作品の根源』前掲書89頁

*2:地面、〈大地=根本〉的で起源的(オリジナル)な経験

*3:『絵画における真理』

*4:彼の記述は「世界奪取」である。

*5:デリダによれば(よらずとも)この点が、ハイデガーの行き過ぎに情状酌量の余地を与える最大の理由である。だが、そうした批評家と作者との結託において、作品(の魂・亡霊)が抑圧される。

*6:ブラックボックス