ロザリンド・クラウス----批評の方法(10)

argfm2008-08-14

 ぐうたらブロガーは少し間を空けてしまったので話を整理する。整理しつつ、今後のクラウス読解の導入部とする。(註;これは日記のようでもありますが、かならずしも日記ではありません。初めてここを訪れた方はブログ開始一日目から通してお読みください。)
 
 (つづき)
 「世界の自動書記」がアートであるのか否か、アートとは何か、そうした問いかけが、「世界の自動書記」および「枠」によって視覚の専制に対する批判を目論むロザリンド・クラウスには欠けている。クラウスが「指標記号」を援用しつつ「写真」をモデルにして提示した以下の図式すなわち、「世界の自動書記」によって産出された対象の枠による切り取り・転写・転送による「現前」、という一連の図式は、クラウスが書いて(しまって)いるように、枠の内と外という階層性を前提とした選別と排除を伴う。虚構化すること(「作家主体の介入」)なしに枠による切り取りはない。(クラウスによれば、この選別と排除ゆえに「世界の自動書記」は「記号」となるのだから、ここで働く判断は予断を不問に付すことなしにはあり得ないことになるだろう。)だが、だからこそ、この介入を「ない」と言い切るクラウスが問うていないものの一つに、虚構化の次元における「主体の介入」を数えることができるのである。
 ジェームス・クリフォードが批判していたのは、枠(閉じた構造)の外にあるものによって、枠の普遍性を発掘し保証するという戦略における、内と外という階層化された区別を可能にするような予断の存在であった。西洋の芸術作品は、その外にある「世界の自動書記」が産出した事物によって自らの超歴史的な普遍性を再発見する。枠はこのようにして延命するが、しかし、こうした戦略に欠けているのは、枠の外にあるとされるもの(「世界の自動書記」)の様態、すなわちそれ固有の時間、それ固有のコンテクストに対する分析・解読であった。分析・解読の欠如において問われないのは、「世界の自動書記」は芸術作品であるのか、あるいはまた、芸術作品とは何か、という(われわれ自身が持っているはずの)予断である。
 アートに帰属することが自明視されている「世界の自動書記」を、言い換えれば、最初から芸術作品だと‘わかっている’もの(芸術とは何かという問いを含まないような作品)を、(少なくともそのとき作品の次元においても言説の次元においても「批評」が不要になることは間違いないはずであるが、)我々は芸術作品と呼びうるだろうか。そして、予断を問うことのない批評は、そのとき、世俗的なもろもろの事情を追認すること以外の一体何をしているのだろうか。(これが、芸術への対象の帰属を自明視しているある種の「批評」群が問題視されるべき理由である。)
 さて、以上は、冒頭で予め述べておいたクラウス批判をやや異なるアプローチから、再度確認したものである。これから扱おうとする論題は他にある。
 ロザリンド・クラウスは『FORMLESS A User`s Guide』*1において、ロジェ・カイヨワが用いた「擬態」についての解釈を自らの主題とし、そこに様々なテクストを架橋し援用しつつ、グリーンバーグを批判している。*2このテクストから、彼女がなぜグリーンバーグの論説を批判しなければならないのかというその理由を示してくれる様々なコンテクストへの道が開ける。ここで改めてその批判の理由とコンテクストを詳しく検討しておく必要がある。「主観性の縮小」という言葉によって、そこで批判されているのは実のところなんなのか。批判の対象は予断であるのか、それとも経験的なものが普遍を僭称することなのか、視覚の観念論とでもいうべき批評の抽象性であるのか、それとも別の何かであるのか、それはホミ・バーバが言うような「擬態」*3とは異なる戦略に基づくものなのか、そしてまた、彼女にそうした批判のための一連のアイデアを提供したコンテクストとはどのようなものであり、それらはどんな問題を提起していたのか。(つづく)


イラスト PLUMP PLUM

*1:Zone Books 2000 Yve-Alain Bois 、Rosalind E. Krauss 著

*2:『FORMLESS A User`s Guide』中の「エントロピー」の項を参照。

*3:「規範化された」知識と規制する力に対して内在的な驚異となる擬態