ロザリンド・クラウス----批評の方法(11)

(つづき)
『FORMLESS A User`s Guide』の「Entropy」という項目の中で、ロザリンド・クラウスグリーンバーグ批判のための主な論拠をエントロピー(熱力学の第二法則)とシミュラクルという二つの概念の間の結びつきに求めている。一体、エントロピーとシミュラクルがどのようにして関連づけられるのか?この点についてこれから検討してゆく。(この時代のクラウスの理論および発言は、それなりに今日でも活用されてはいるのだから、その批判検討は‘単なる読書’では済まされないはずである。)
 「Entropy」で彼女が批判するのはグリーンバーグが1960年に発表した「モダニズムの絵画」*1である。「モダニズムの絵画」ではどんなことが語られているのか、ここで簡単に見ておくことにする。グリーンバーグが「最初の真のモダニスト」と位置づけたカントから彼が読み取ったモダニズムの方法論とは、芸術は「各々の個別な芸術において、何が独自のものであり削減し得ないものか」を批判吟味せねばならないというものであった。そのことによってモダニズムが目指すのは、「安泰にこの(固有の)領域を所有すること」である。つまり、絵画から非絵画(たとえば彫刻や演劇)を取り去って、絵画芸術固有の領域を所有すること、それが「批判」の目的である。「批判」を通じて、個々の芸術は「純粋」になり、その自立と質の基準を保証される、(とモダニスト達は考えたであろうと、)と、グリーンバーグは物語る。だが、いったい、絵画や彫刻といった諸ジャンルの同一性は何によって決定されるのか?グリーンバーグによれば、その基準は「メディウムの本性に独自なもの」に求められる。たとえば絵画ならば、それが絵画でなければならないことの理由を、作品がメディウムと技巧を通じて示すのでなければならない、ということである。物質的な特性(平面性、支持体、顔料などの特性)を、作品にとっての積極的な要因として打ち出すのでなければならないのである。
 [少し寄り道すれば、むろん、ここで「批判」と呼ばれているカントの超越論的方法論とは、グリーンバーグが考えているようなものではない。カントが「批判」の対象とするのは歴史的に形成されてきた経験的なジャンルでもないし、諸事物を制作するための技術でもない、対象と主体との関係のあり方において区別されるような、法則の形式を備えた諸々の心的能力(経験から独立した原理から生じるところの判断の諸形式)である。たとえばその対象は、認識(表象と対象の一致もしくは適合)、倫理(表象によって対象の実在性の原因とする能力)、感情(主観に対する表象による触発)として区別される。既に議論してあるのでここでは大雑把かつかなり問題含みの言い方を簡単のために許していただきたいのだが、単純素朴に言えば、「これは絵画である」、「これは絵画であるべきである」、「絵画っていいなあ(/やだなあ)・・」というときの、主体と対象との関係の違いである。議論を実りあるものとするためには、現在どの能力が議論を主宰しているのかを確定できるのでなければならない。言い換えれば、「批判」の目的は、たとえば純粋理性なら純粋理性が、どんな問題を扱うことができ、どんな問題を扱うことができないかを知ることにある。それが「純粋さ」であって、一つの能力は他の諸能力の使用を禁ずるものではない。悟性・理性・構想力はこれらの能力のいずれか一つの主宰によってそのつど様々な関係に入るのであり、諸能力の関係はその都度の組織において変化するのである。したがって、ある特定のジャンルから他のジャンルに由来するものないし共有されるものを排除するというグリーンバーグの「純粋」観は、モダニズムの(カントの)それであるとグリーンバーグが断っている点において、間違っている。制作に関わるものではなく、趣味の涵養や淘冶を約束するものでもないカントの『判断力批判』(「趣味に関する批判」)は、美感的客観性(判断)一般の可能性の形式的条件(美を議論するための条件)を分析するのである。
 カントとグリーンバーグの間にある共通の「モダニズム」とは、束縛されない自由が(その能動的な力の意識ゆえに)美(快の感情)であるという認識および、内的・本質的なものと外的・非本質的なものとの区別(枠)を前提しているという点にあるが、以上の二点を除いては、なんの関係もないと言ってよい。グリーンバーグにせよカントにせよ、またカントとモダニストたちとの関係にせよ、それらは別個に議論されるべきである。]
 ここで少し脱線するが、他の場所で、ロザリンド・クラウスは、グリーンバーグの言う「物質性」とは「伝統的(traditonal)」なそれ(たとえばキャンバスのような)であって、作品の構造の再帰性を意味するような、生産のためのルールの束・リソースとしての物質性(メディウム)の謂ではない、と批判している。*2つまり、そこで言われる「物質性」とは、ジャンルに固有なものとして無批判に前提されたものだ、と言うのである。クラウスによるこの指摘はグリーンバーグの矛盾を衝いており、彼女の「物質」観は、その捉え直しとして評価できる。というのも、グリーンバーグは『モダニズムの絵画』において、方法や手段は美的な成果ないし質にとっては問題とはならないと断言しているにもかかわらず、他方、『アヴァンギャルドキッチュ』においては、手仕事のメディウムとしての制作プロセスや規律なしには、抽象は美的有効性を持ち得ず、恣意的・偶発的なものになるだろうと書いているからである。だが一方で、グリーンバーグの「物質」観を批判しつつも、メディウムの論理に注目することこそが、アートが、モダニズムが、キッチュから身を守ることを可能にしたのだとも、クラウスは主張している。主にR・バルトやG・バタイユから得た理論とは別の方途において、一貫して、クラウスにはメディウムの論理との格闘があり、グリーンバーグ批判において彼女がこだわっているものの中には、メディウムの論理が含まれている。*3(だが、これらの理論は彼女において混合・混同されており、その点についてはこれから検討する。)
 しかし、なぜメディウムにこだわることがアートをキッチュから防衛することになるのか。
(つづく)

*1:『ぐりーんば批評選集』 藤枝晃雄 編訳 2005 勁草書房 

*2: Art Since 1900: Modernism, Antimodernism, Postmodernism: 1945 to the Present Hal Foster、Rosalind Krauss、Yve-Alain Bois、 Benjamin H. D. Buchloh THEMES&hudson 2005

*3:メディウムについては、デリダの「ジャンルの法」(The Law of Genre)を参照せよとクラウスは言っているが、邦訳がなく英語訳を読むのは金も時間ももはやなくめんどくさいのでここでは触れない。おならプーだ。