ロザリンド・クラウス----批評の方法(5)

argfm2008-05-25

(つづき)
 ロザリンド・クラウスによればシュルレアリスムの美学を定義し、その全生産を統合するキーコンセプトとは、「エクリチュールへと変容させられた現前性」である。「エクリチュールへと変容させられた現前性」とは、「おのずと」でありながら「再現=表象」であること、つまり自然の産物でありながら記号であること、というシュルレアリスム作品のパラドキシカルな経験を言い表す。このパラドキシカルな経験が、《痙攣する美》に‘自然の摂理によって経験的なるものの次元(「循環的経済」)を超出するという’弁証法的総合」としての価値を与えているのである。『シュルレアリスムの写真的条件』のほぼ前半部は、この「パラドキシカルな経験」を演出することに費やされている。すなわち、既に見てきたブルトンの「矛盾」および、美術史的言説によるシュルレアリスムに対する定義の失敗といった彼女による一連の指摘は、すべてこの「パラドキシカル」に事実としての肉付けを施し、リアリティを与えるためのものである。だがなぜ、その中心が写真でなければならなかったのか。「シュルレアリスムの全生産を統合するキーコンセプト」である「パラドキシカルな経験」の価値も、「おのずと」の価値も、なぜシュルレアリスムをめぐる論説の中心が「写真」でなければならないのかというその一点にかかっている。この点を検討するためには、実のところ彼女の論理がほとんどその引き写しとなっている、ベンヤミンの『写真小史』を検討しなければならない(クラウスはその理由を示すことができずにいるのだから)。ベンヤミンを読むことで、クラウスのたいへんな勘違いを、(と、私は思うのだが)示すことが出来るだろう。
 『写真小史』(ベンヤミン)にせよ『シュルレアリスムの写真的条件』(クラウス)にせよ、ベンヤミンとクラウスが「写真としての芸術」(「芸術としての写真」ではない)を論じるに当たってブルトンから受け継いだ根本的な認識とは、推論によって汚されていない「野生の目」がオートマティスム(写真)によって可能になるというものだった。ここで言う「野生の目」とは「視覚的無意識」の経験を意味する。たとえばベンヤミンにとってそれは、高速度撮影や拡大・縮小による、見えないものの解明であり、人間によって意識を織り込まれた空間の代わりに、無意識の織り込まれた空間(「都市の無意識」などの)が立ち現れるという経験を指す。「視覚における無意識的なものは、写真によってはじめて知られる」のである。ベンヤミンを経由することで、オートマティスムは反省なしの、機械的な転写にもとづく対象の解析へとその意味を変える。ベンヤミンは次のように書いている。


 「もっとも、写真という新しい技術の本質を、この肖像群よりもさらに深く理解させてくれるようなヒルの習作がいくつかある。それは肖像ではなく、無名の人々を撮った写真である。絵画では、そうした人物像は昔からあった。無名の人物を描いた絵でも、それが家庭内に所蔵されているうちは、ここに描かれている人は誰かという問いが繰り返し口にされた。だが二、三世代後には、そうした関心は消えうせている。それでもまだ絵が残っているとすれば、それはたんに、その絵を描いた人間の芸を証明するものとして残っているのである。ところが写真の場合には、ある新しい、そして奇妙な事柄が生じてくる。人の心をそそる素朴な恥じらいを見せて目を伏せている、あのニューヘヴンの魚売りの女のうちには、写真家ヒルの芸の証明ということで片づけられないほかのなにかがある。どうしても沈黙させることのできないなにかがあって、それはあそこで生きていた女、ここでもまだ現実の存在であり、決して完全に〈芸術〉の領域に入ってしまおうとしないあの女の名前を、あくまで要求してやまない。」*1


 ここでは美学ではなく、社会的機能の研究こそが重要なのであり、観相学的、政治的、科学的な関心から離れて「創造的」となった写真は「フェティッシュ(魅惑と暗示)」に成り下がるだろうとも、ベンヤミンは書いている。機械的な分析的アプローチによって対象の新たなアスペクトを獲得することが、写真として解釈され直したオートマティスムに期待すべき革新性なのである。*2
 だが、「視覚における無意識的なものは、写真によってはじめて知られる」のだとしても、ここで「無意識的」とは何を意味するのだろうか。ベンヤミンが「無意識的」として挙げる事例は大別して三つある。一つは、写真に向けられた回顧の眼差しが発見する偶然(「現実がこの写真の映像としての性格にいわば焦げ穴をあけるのに利用したほんのひとかけらの偶然」)である。「カメラに語りかける自然」においては、肉眼に語りかける自然とは異なり、「人間によって意識を織り込まれた空間の代わりに、無意識が織り込まれた空間が立ち現れるのである。」それが、「回顧の眼差しが発見する偶然」ということの意味である。たとえば、写真家カール・ダウテンダイによる、後に自殺する妻と一緒に写った写真の中で、「彼女のまなざしは彼のかたわらを通り過ぎ、不幸をはらんだ彼方を一心に見つめている」。二つめは、先にも触れた、高速度撮影や拡大による、見えないものの解明である。とは言え、便宜上ここで二つの「無意識的なもの」を区別して語ったが、ベンヤミン自身はこれら二つの「無意識的なもの」を区別しておらず、二つめの無意識は一つめの無意識のための事例として挙げられている。そこにブルトンにもあった無意識と物質的因果性との混同がある。たとえば、「〈足を踏み出す〉ときの何分の一秒かにおける姿勢」(見えないものの解明)は、「回顧のまなざし」によって発見される偶然ではない。高速度撮影という技術は現在の過去への投影でも、「回顧のまなざし」でもないし、ここで発見されるのは「偶然」ではなくむしろ身体動作の「必然」である。さらに三つめの無意識は精神分析におけるそれであるのだが、これもまた、以上二つの無意識を説明するものとして挙げられているのであり、ベンヤミンによっては区別されていない。「視覚における無意識的なものは、写真によってはじめて知られるのである。それは衝動における無意識的なものが、精神分析によってはじめて知られるのと同様である。」と、ベンヤミンは書いている。だがそれは、‘比喩’にすぎない。こうした混同が可能になるにはそれなりに理由があるように思われる。というのも、「無意識的なもの」が、写真を見つめる主観にとって自らの主観性を相対化してくれるような経験において現象するものとして見なされるならば、対象が産出されたプロセスすなわち無意識と物質的因果性の違いなど、なくなるだろうからである。
 ここで、ベンヤミンの言う「無意識的なもの」が少なくともどのようなものでありえないかについては、明確にすることができるように思われる。写真による「無意識」の開示というオートマティスムの定義においては、ブルトンがこだわった抵抗としての無意識はスッパリザックリ切り落とされてしまう。と言うのも、『写真小史』のベンヤミンは、あたかも写真が無意識の分析でありレポートであるかのごとく(私ではなく写真が語ったのだとして)「写真家=精神分析医」と書いているのだが、しかし、アジェの写真に対して「人間と環境の疎遠化」を読み取るという「精神分析」を行っているのは「政治的な訓練を積んだ眼」を持つ筆者ベンヤミンなのであり、したがって、ここで写真に織り込まれたとされる無意識的なものは、分析家の解釈に回収しうるもの、既に解釈に対して抵抗する力を失っているような「無意識」であるからだ。ここで比喩的に無意識と名指されている現象は写真の多義性によって可能となるのであるが、写真の多義性は鑑賞者(そこに分析結果を書き込みに来る者)の多数性なのであり、「無意識的なもの」は一つの視点(主体)から別の視点(主体)への移動において、相対的にそう呼ばれるに過ぎない。(「無意識的なもの」はつねに潜在的に誰かの「意識」である。)つまり、ここで「超現実」の「超」とは、個の(ある主体の、主観の)有限性を超えることを意味するものとなるのだが、同時に、個の超出によって踏破されるだろう/べき全体はすでに知の次元において確定されているということでもある。だからこそ、重要なのは分析のための枠組みを作ることであるのだ。社会的機能の研究を課題とし、「生活状況全体の文書化」を目指す(「標題は写真の本質となる」)ベンヤミンにとっては、これでいいだろう。とりあえず、社会正義が目指される限りで文句をつける筋合いはない。シュルレアリスムを都市の記号論的読解へと、写真を「犯罪の」証拠物件へと還元すること、すべてを鑑賞者(「分析医」)の語る物語へと従わせ役立てること。なるほど、病は治癒されるべきであるし、我々は癒しの物語を欲しているかもしれない(理論への回収ないし物語による治癒--治癒=ここでは読者による合意--は、分析家への信頼という、情動を媒介とした人間関係によって成立している)、だがしかし、とりわけ知が目的ではない芸術作品が問題である限りは(あるいは法そのものを問うような倫理--文学(?)--が問題である限りは)、ベンヤミンが描くこうした「無意識的なもの」に未来があるかどうか疑わしい。言い換えれば、ベンヤミンが指し示す「芸術としての写真」に代えて「写真としての芸術」という方向性に、芸術の希望があるかどうかは疑わしい。
 だからなおのこと、クラウスが『写真小史』をシュルレアリスムに、そして70年代後半のアメリカ美術に適用するとき、素直には肯けないものを感じるのだ。(つづく)

*1:ヴァルター・ベンヤミン 『写真小史』 久保哲司訳  原著1931 ;『ベンヤミンコレクション1 近代の意味  浅井健二郎編訳 久保哲司訳』所収 ちくま学芸文庫

*2:余談として。これはベンヤミンとはちょっと違う話ですけど。新たなアスペクトの獲得というのは、音楽で言うとこんな感じか。たとえば、次のページなど役に立ちます。アドレス長いので文字列をコピーしてググって下さい。〈「現代音楽における音響―セリーからスペクトルまで」夏田昌和