『フリータイム』(決定)

(つづき)
 だが、批評は公表されるべきでないという彼女の提案には無理がある。まずもって作家は、自分の作品についてのみならず他の作家のものについてもまた、「なぜこの作品が好きか、なぜこの作品が嫌いか」と誰かが語るのを聞きたがっているものではないか。そしてまた、公表されることのない批評は、それ自体が批評の対象となる機会を奪われることにもなるだろう。○○先生と作家の間に生じる結託こそがウルフの批判する「書評」(‘風評’)のはずである。
 もし批評が作品のためにのみ作者のためにのみあるのならば、そしてまた、自然発生的なものにとどまるならば、なるほど批評を公開する必要はないだろう。【後記 :とは言え、自然発生的なものなしに、批評があり得るかどうかは疑わしい。】だが、批評は作者のためにのみあるのではない。批評の書き手にとって、それが再帰すべきか再帰すべきでないかという判断を兼ねた、学習の対象であるからこそ、批評は書かれるのではないだろうか。それが認識の次元であれ、モラル、審美的、技術的などの次元においてであれ。そうした批評を公開する理由は、自らの作文に対する他者による批評という利益を得たいがためというだけではない。また、最悪の場合にはただの韜晦や誤った知識の披瀝に堕すものだが、作者との知恵比べとばかりに自らの知識なり見識なりを他に誇らんがためでもない。たとえ作者との知恵比べは避けて通ることのできないものだとしても、批評は批評の書き手の虚栄心や出世欲を満足させるためにあるのではないからだ。批評を公開する理由は、学習の過程そのものによって、そこでは話題にならないはずの無関係の何かを、同時に学習の対象に据えるためである。よく言われるように、ここで起こっていることは他所で起こっていることである、というわけだ。そのためには、作品が「古典」となる日を待っていたのでは遅いということもあるのだ。したがって、ウルフの批判を受けて、というだけではないが、そこに話を継いで、〈すもも画報〉では、‘結託’を忌みつつ、ある作品を別の活動において生かす目的で、ある作品が別の何事かでもあるだろうとして分析し、判断するつもりである。ただし、そうした教えを受けたのはまぎれもないこの作品であったという経験と、事例の特殊性を忘れることのないように気をつけよう。(たとえ芝居の途中で注意散漫になり、あるいは声が良く聞き取れず、台詞の一部が失われているとしても。・・・エ"〜ッ!?)さもなければ、すべてはどこかで聞いた話のコピペに過ぎないものになるだろう。(とは言え、どこかで聞いた話以外のことを書くなどというのはおそろしく大変な労力と時間を必要とするのだ。簡単なことではないのだ。 【後記 :しかし、そもそもどこかで聞いた話ということそれ自体が一つの事例ではないだろうか。】)


 さて、本題に入る。『フリータイム』に登場人物は四人いる。(実際に舞台に上がっている役者の数は六人である。)四人の人物たちは互いに互いのことをこういうヤツだろう、こんなことを考えているのだろうと勝手に想像し、勝手なことを語る、ただし、本人に向けてではなく本人以外の誰かに向けて語る。(独り言として、あるいは観客や対話相手に向けて。)つまり、本人のいないところで、自分に現れるがままの、想像されたその人を語る。ちょうど誰かの顔写真に勝手に落書きを書き込むように、そうした語りはまったく的外れであることもあり当たっていることもあるのだが、こうした判定は、語られる当の本人たちの台詞によって可能になる。あるいは語り手自らが、自分の話は嘘や想像に過ぎないと断ることで示されることもある。いずれにせよ、語り手に対して他者が自分について語っていることそのものが与えられることはない。自分について他者が何を語っているのかを知る機会はなく、一方が喋っている時は他方は同じ場にいない。語る者と語られる者の台詞が同時に現出することはない。この芝居に対しては、こうした非対称性、つまり、記述するものと記述されるものという非対称性の演出を、一つの規則として読み取ることができる。(つづく)


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