パレルゴン(15)

ゴッホ『古い編み上げ靴』

 (つづき)
 カントによれば、およそ技術的所産が可能であるためには規則を前提とする。だが芸術は技術的所産であるにもかかわらず、「その作品を産出するために従わねばならないところの規則を自ら案出することができない」とされている。規則を前提とすることなく規則を産出すること、この矛盾を解消するのは、既に見た〈自然=天才〉であり、天才はわれわれに与えられている自然とは異なる第二の自然の直観を創造するがゆえに、すべての概念(および規則)を超出する。すなわち、天才は理念(理想、「統制的理念」)を産出する。ゆえに、天才については、自然美についての諸結論、趣味判断が適用できるのだとされる。*1
 ここで、芸術の歴史にとって唯一の道標となるのは、趣味による判定を経た作品という事例・範例のみであるが、ただし天才の模倣は禁じられており、天才を天才として反復することしか許されないのであるから、そうした道標とは正確には規則と重ね合わせることもできず、したがって技術でも認識でもモラルでもあり得ない。芸術作品という範例そのものは「反省」不可能すなわち思考不可能なものとされるのである。芸術作品が市場(賃金による技術、循環的経済)に抵抗するとは、その固有性ないし還元不可能性においてではなく、まして別の‘市場’を形成することにおいてではなく、この意味(反復不可能性)において言われる。われわれは学知を批判することはできるが、芸術作品を批判することはできないのである。(議論しうるのは「趣味判断」すなわち、美感的客観性一般の可能性の形式的条件のみである。)なぜならそれは「理想」(理念)に過ぎないのだから。先に引用した部分に続けて、デリダは次のように書いている。「模倣によっては趣味は獲得されない。趣味の判断は、たとえそれが原型的な(範例的な)諸産出をその参照物とするときでも、自律的で自発的なものでなければならない。したがって、最高の手本、最高の雛形は、ひとつの理念(傍点)でしかありえず、この一つの単純な理念は、各人が自らのうちにおいてそれを産出しなければならず、また各人はそれをもって趣味の対象となるすべてのものを判断しなければならない。雛形は必要であるが、模倣は不要である。これが範例的なるものの論理であり、範例的なるものの自己-産出の論理であり、この産出の形而上学的価値は、つねに、歴史性を開き、そして閉ざすという、二重の効果をもつのである。各人は趣味の理念を産出するのではあるが、この理念はけっして一つの概念によってあらかじめ与えられはしない。すなわち、理念の産出は歴史的であり、それは一連のあらかじめの規定なき開始である。しかし、この産出は自発的で、自律的なものであり、それがその自由によって普遍的な根底に接合するときでさえも自由なものであるから、これほど歴史的でないものはない。」
 趣味判断をめぐる議論が込み入っているのは、趣味判断と論理的判断は異なるという言明と同時になされる、趣味判断への論理的判断の適用という矛盾があるからであり、この矛盾はそのまま引き写しにされて二つの異なる(とは言え混同されたままの)趣味判断になっている。この矛盾が露骨に現れるのが芸術論である。言い換えれば、『判断力批判』における芸術論が抱えた困難とは、「産出」および反復可能性を捨象しつつ「技術による所産」に対し、「主観における表象」(想像力の自由な遊び)において、その真理を「判定」することの限界である。*2そこから様々な矛盾、相容れない判断が導き出される。だが、その限界にも拘わらず、こうした捨象は『判断力批判』の目論見にとって必然である。というのも、「産出」および反復可能性を捨象しなければ、〈自然=天才〉への関心を要求することもできなくなるだろうし、したがって真理(自然)と主観の適合・一致を望むこともできなくなるだろうからだ。*3既にMOMAの事例において見てきたように、(事例はそればかりではないけれども)作品そのものを経験する条件が、ここでは失われていると言えるのではないだろうか。
 そもそも、趣味判断と論理的判断の区別、個別特殊な経験と一般的規則との区別には無理がある。たとえば、「薔薇は美しい」という言明を、「薔薇だから美しい」(経験なし)と「この薔薇(ナニカ)の美しさ」(経験)とに区別することが不可能なこともある。ラーメンを食べて、「ラーメンとは美味いものだなあ」と人が言明したとする、そのとき、人は彼(彼女)が個別特殊なこのラーメンについて語っているのかそれともラーメン一般について語っているのか、区別することはできないはずである。「ラーメンとは美味いものだなあ」と思わせるラーメンというものがあるのだ。いやあ絵画ってほんっといいもんですね、と思わせる絵画があるように。(水野晴郎の決めゼリフのようなこの考えはデリダを読むことで教わったが、いずれ詳しく検討するつもりである。)ところで、ここまで考察を重ねてきて、その‘公認の基準’の一つを検討はしたものの、いまだ芸術とは何かという問いに答えを出していない。クリフォードによる批判に対してはわずかなりとも答えを出したので、ここで「いかなる基準が、真正の文化的あるいは芸術的産物を公認するのか?」という問いを少しばかり変形し、「芸術とは何か」という問いを立てることにして、この答えのための足がかりとなるものを、次に、デリダによるハイデガー『芸術作品の根源』の読解である『返却』〔もろもろの復元〕*4に探ることにする。(つづく)


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*1:ところで、自らの生をリアルでないもの、自然でないもの、魂がなく生気がない、単調で一様な機械的産物と断じられた‘芸術家’はとまどうかも知れない。‘芸術家’以外のすべての生、すべての技術者が捨象されていることを気にも留めず、リアルな現実、真の自由、真正の自然を求めて、‘芸術家’はネタ探しに忙しく走り回らねばならないだろう。お笑い芸人ならネタ作りに忙しいはずだが、自然から授かった真正の言葉を口述する‘メディア’たる‘芸術家’はそうではない。‘芸術家’は、「自然」の産物を、なぜどうやって作るのかも分からぬまま、自分が作ったのではないからこそそれはリアルな現実の徴たりうるわけだが、そうしたネタを、「芸術」として提示しなければならないのである。‘アニメ’であれ、‘自然物’であれ、‘マイナー’文化であれ、‘ゴミ’であれ、‘海外の’巨匠であれ。

*2:このことは、模倣するものと模倣されるものの次元の違いを消去するということを意味するのではなく、模倣するものと模倣されるものの次元を区別した上でそれらを同一化することを意味している。(卑近な例でいえば、ある絵画Aと別の絵画Bを比べて、それらがまったく異なる目的、まったく異なる制作過程を持つとき、にも拘わらず、BとAを「主観における表象」において同一化し、すなわちたとえばAをBへの同一化の諸段階・諸過程にあるものとして位置づけ、Bに比べればAは劣る、というような比較・批評(?)が挙げられよう。たとえば、熊谷守一マティスに劣る、あるいは熊谷守一マティスへと至る途中である、というような解釈である。言うまでもなく、表面的には類似して見えもする熊谷とマティスでは、しかし、絵の描き方がまったく異なる。)

*3:こうした理論が「観照」にとどまらず制作にも適用されるとき(それが「判定」である以上は制作に影響を及ぼすことは必然の帰結である)、‘写真’というメディア(作者なし、あるいは‘自然’が作者であるというメッセージとしてのメディア)がクローズアップされることになるが、それはもう少し後で考察する。

*4:『絵画における真理』所収 既出書