『フリータイム』(2)

(つづき)
 たとえば、登場人物の一人が何かを語る、周りには五人の役者がいる。五人の役者達は壁により掛かったり、椅子に足をかけたりして身体を動かしているが、沈黙している。彼らの視線が語り手に向けられていることもある。まるで物言わぬ動物のような*1、‘スリープ状態’にあるかのような彼らは、現にある舞台としてはそのことによって語り手に対して一つの背景を形成しているが、しかし、語り手が何を語っていても彼らの思考や行動にそれが受け入れられることはないのだから、同じ時間を共有しているのでもなければ、同じ空間に属しているのでもない。つまり、舞台上で台詞として開陳されるのは登場人物達のそれぞれ固有の時間である。そうした固有の時間は互いに影響を与えることはないが、しかし、互いを記述し合ってはいる。(だからこそ、彼らが同時にしゃべり出すことはない。)
 だが、彼らはなぜ互いを記述し合うのか、『フリータイム』においては、それはなんということもないような興味に因る。おかしな行動をするヤツがいるとか、しばしば自分の想像によって引き起こされた過剰反応に過ぎないこともあるような、そんな興味が、彼らに記述をさせ、彼らを結びつけている。こうした興味は、知的関心(認識の拡張)と言うよりは、動物的な異変の察知という感覚として描かれている。つまり他者が、ワケのわからないものとして、同時に何かしら自分に関係があるかも知れないものとして現れる、そうしたほとんど不安にも似た興味が、彼らに互いを記述するという行為、この芝居においてそれは解釈という暴力であるが、その契機となる。そうした解釈が決して正当化されないこと、そこがいい。唯一自分について自分を記述することのできる人物が主人公の女性であるが、彼女でさえ、もう一人の自分との時間的空間的隔たりにおいて記述される。とある場面で、一方は他方の言動を「あれは嘘」と教えてくれるが、それが本当かどうかはわからない。二人の役者が同一人物を演じていることの意味がここにある。というのも、もしこれが同一の役者において発せられたなら、「あれは嘘」という発言の意味は、「あの話は嘘だった」ということと「あの話は嘘ということにして下さい」ということとのどちらかに決定できるからであり(たとえ本意ではない場合においても。)、いずれにしても、「あれ」を否定する機能は同一である。喩えれば、既に書き込まれた文字に対して、その上に引かれた抹消の線のようなものである。だが二人の役者が同一人物を演ずる場合、「あれは嘘」という発言の意味は、「あれ」が嘘であるのかそれとも本当であるのか(この発言が嘘であるのか)が決定不可能になる。喩えれば、既に書き込まれた文字と、その隣に、矢印を引いて「ウソ」と記した落書きとの関係である。つまり、内的な生が、自己固有の時間における出来事の継起であるとしても、その自己固有の時間を記述する場面において、記述するモノと記述されるモノという非対称性が残る以上、人は自己固有の時間とさえ、完全な合一を得ることはできないということである。そしてまた、人が語る(記述する)ということについての、役者が芝居において台詞を喋るということについての一つの認識・判断がここにあるように思う。言い換えれば、記述するとは何か、台詞を喋るとはどういうことかという問いとそれへの答えが、一つ、ここに示されているように思う。そこが面白い。(つづく)

*1:役者達がこのように見えるということの必然性は彼らの動きが事物によって規定されていることに因るが、今回はこの点についてはあまり立ち入らない。『三月の五日間』にはなかった動き方ではある。