『フリータイム』(3)

(つづき)

 一般に、人々が互いを記述しようとする契機とは必ずしも「ほとんど不安にも似た興味」といったものばかりではないはずであり、また、互いの記述が暴力としての解釈を帰結することも必然ではないが、しかし『フリータイム』というこの芝居にとって、人々を結びつけるものが解釈による暴力であることは必然である。というのも、芝居のタイトルでもある「フリータイム」とは、主人公の女性が出勤前にファミレスで自分を取り戻す(暖める)目的で日記を付ける朝の30分のことであるが、その意義は暴力的に自己が奪われることへの抵抗にあるからだ。舞台の進行の中で彼女が直接に解釈による暴力に抵抗する場面は、隣席の男性が彼女の日記を物珍しげにのぞき見してゆく場面くらいしかなく、解釈への抵抗が彼女に「フリータイム」を作らしめた原因でもないが、しかし、それらを「フリータイム」の目的において重ね合わせることはできる。解釈による暴力と会社による暴力(機械的合目的的な時間の流れ)とは、ダジャレではなく、重ね合わせ得る。
 ところで「フリータイム」とはなんなのか。彼女が自分を取り戻す(自分を暖める)ための時間は出勤前でなければならず、あえて機械的合目的的な時間の流れに逆らうものでなければならない、しかし、それは仕事に差し支えるものであってはならない。つまり「フリータイム」は、彼女の一日を合目的的に統制している時間の流れを乱すものでもないし、そうした時間に対する余白に挿入されるのでもない。時間の流れを断つことが重要である。そして芝居が示すところによれば、彼女がフリータイムに捧げる日記には、判読可能な何ものも記されていないのである(ぐるぐるとした「抽象画みたいな」線が描かれているだけである)。それは伝達を目的としておらず、そこで必要とされているのは書くという能動的な行為のみである。したがって、彼女がぐるぐると線を描く姿、すなわち日記を書く姿は、事物によって規定された動きを行うことで背景をなしている他の登場人物達に重ね合わせることができる。(他の登場人物達がなす機械的な動きは、それ自体が芝居の中で語りの対象になることはない。このことから、彼女だけが、背景と化した他の登場人物達を代弁できるかのようにも見え、ゆえに、彼女は主人公であると認識され得る。)ここで、そうしたいわば何ものとも無関係であるような無目的な自然状態、没入の状態においてこそ、自分を取り戻すこと、自由は可能なのだと、「フリータイム」の意味を解釈することもできるように思われる。(彼女が台詞としてそう語ることはなかったと思う。記憶が薄れている。)だがこうした規定が、『フリータイム』という芝居そのものと、そこで言及されている「フリータイム」とを重ね合わせることを難しくする。なぜならば、『フリータイム』という芝居が見せてくれるのは、そうした何ものからも自由であるような純粋な自己固有の時間、永遠の現在なるものがしかしその連続性において、過去を現在において想起するということの中に、既に他なるものを含んでいるという認識であるからだ。それが先に言及した、二人の役者が同一人物を演ずることの意味である。人は自己固有の時間とさえ、完全な合一を得ることはできないということ、自己の中に既に他者があるということが、そのことによって示されている。だからこそ、ここで主人公が必死に「フリータイム」を確保しようとする姿が悲劇的なものに見えてくる。*1
 だが、そうした彼女の存在を芝居として語ること、そのことにおいて、「ほとんど不安にも似た興味」や解釈による暴力というだけではない、他者について語ることの別の契機があるように思われる。この「別の契機」が、『三月の五日間』と『フリータイム』の二つしか見ていないけれども、対象を見つめる視線として岡田利規にはあるように思う。(作家名、著者名の場合は基本的に敬称略。以後同。)そこがいい。『フリータイム』という作品は『三月の五日間』以上に構成が練られており、芝居とはナニカという作者の考えが、精魂が、詰まっている。チェルフィッチュの作品がなぜ好きかと言えば、そういうことである。(終わり)

*1:後記 ;この箇所の論理が曖昧に見えることは、私も自覚している。だが、ここで私に論理不明瞭とも思われかねない歯切れの悪さを強いた問題こそを、私は今これから考えようとしており、その問題と解を誤解のないように詳述することは、今の私には難しかった。『フリータイム』においてその答えを見つけることは、今回はできなかった。文章に対する読者の方々の注意を散漫なものにせぬよう、後記としてこれを欄外に記す。