パレルゴン(16)

argfm2008-03-29

(つづき)
 『返却』〔もろもろの復元〕は、ハイデガー(1889 -1976)による論考『芸術作品の根源』を論じたものである。『芸術作品の根源』はカントの『判断力批判』に対する批判的言及を含むものであり、ハイデガーは美学からの技術の締め出し、真理の締め出しを批判しつつ、次のように芸術を定義する。「芸術の本質は、このこと*1、すなわち存在するものの真理がそれ自体を - 作品の - 内へと - 据えることであろう。」*2
 『返却』〔もろもろの復元〕において批判の対象となっているのは、このようにして芸術へと取り戻された真理とはしかし、誰による、誰のためのものなのかということである。この点を考察されるために採り上げられるのが、『芸術作品の根源』の中で言及されたゴッホの絵画をめぐっての、哲学者マルティン・ハイデガーと美術史家マイヤー・シャピロとの論争である。彼らはそれぞれにそこに描かれた靴の帰属先を決定しようとする。ハイデガーによればそれは農民のものであるが、他方、シャピロによればそれは根を失った移民的存在すなわち町の住民たるゴッホ自身に帰される。(シャピロは、その絵画はゴッホがパリに出てきたときに描かれたのだと主張する。)だが、そもそもこうした論争が可能となるという点において、そこには問われる事なき一つの前提、結託があると、『返却』は指摘する。すなわち、作品を背後から統御する存在への作品内容の余すところなき帰属という信であり、そうした同一性が‘我々(鑑賞者)の’目的と同一であるということへの盲目的な信である。真実を語る主体(「私は・・・」と語るもの)がなければならぬという制度上の契約が、「警察的言説」が、彼らの論争を可能にしている。ちょうど犯行現場の物証のように、そのことについて全てを知る犯人がいなければならないということだ。
 だが、なぜそうした結託および我有化があると言えるのか。その理由は、『返却』における分析が示すところによれば、件の靴は決して「一足」ではなく、したがってそれらを履く主体を一人に同定することは、作品による限りは不可能だからである。そこに描かれている靴はなるほど「ふたつ」あるけれども、どちらも「左足」に見える。つまり、対をなしてはいないように見える。そしてそのことこそが、一つの中にある二つ(以上の)ものが、一つの規定された使用価値からの離脱を、あるいは超感性的な意志の同一性に帰されない何ものかを、すなわち帰属不明な事物を生み出す。「対をなさなくしてしまうことの可能性へと開くところのものを、われわれは不均衡〔disparat〕と呼ぶことにしよう。運命の歩みを進ませ、不可能な賭を生起させたこと、これがヴァン・ゴッホの衝撃の残したものであるのだ。それがすなわち彼の奇数性の〔対をなさざること、失策〕天才性であるのだ。」したがって、この靴と一致するシンデレラ探しについての合意、結託が、ハイデガーとシャピロの間にはあることになる。彼らは「絵画における真理」という関心を共有している。同定されねばならない靴というこの物語のうちに、なにがしかの迫害が存在するのであり、いつでも(仮の「所有者」から)引き離されることができ、うっちゃっておかれることが可能なそれら(靴)を、主体に、真性の所有者に返したいという誘惑は、常に余分なものを付け加えることを強いるのである。そしてその余分なものとは、帰属不明なものを自分のために利用しようとする欲望であり、おのおのにその名を記入しようと突進させる、大なり小なり彼ら自身がその株主であるところの「有限責任会社」*3を意味している。

 ところで、こうした我有化は芸術作品と言説の関係において必然であるのかどうか、それが問題である。(つづく)


平凡社HP →[http://www.heibonsha.co.jp/

*1:ゴッホの絵画において、一足の農夫靴(道具存在)が「それの存在への明るさの内へと立つに至る」こと、「存在するものの存在は、その輝きの常立的なものの内へと到来する」こと。後に詳説。

*2:『芸術作品の根源』M・ハイデガー著 関口浩訳 平凡社 原著1960 邦訳2002

*3:有限責任会社」の語については、デリダ有限責任会社』などを参照のこと。