ロザリンド・クラウス----批評の方法(12)

レーピン『ヴォルガの船曳』


(つづき)
 なぜメディウムにこだわることがアートをキッチュから防衛することになるのか。グリーンバーグの『アヴァンギャルドキッチュ』(1935)はそのことについての論争的な分析である。『アヴァンギャルドキッチュ』自体もまた大いに問題含みの、かつ、かなり混乱した議論であって、時間と紙幅をかけた批判的読解が必要とされるテクストではあるが、ここでは簡単に言及するにとどめる。
 グリーンバーグが「キッチュ」と呼んでいるものに対して下す定義は、主に三つある。(『アヴァンギャルドキッチュ』の中ではこれらは明らかな形では区別されていない。)一つめの定義とは、キッチュは、教養を育むほどの時間のない労働者のために市場が供給する気晴らしとしての大衆文化であり、芸術の過程ではなく結果を模倣するというものである。すなわち代理の経験、偽りの感情、ホンモノの文化の劣悪化した「アカデミックな」まやかし物であるという定義である。二つめは、市場の拡大と利潤の追求という資本主義の原理から生じた生産手段に対する抑圧とその限界をともなう生産物であるという定義。三つめは、地方の(固有の、ローカルな)民衆文化を一掃し、「地理上の境界や民族文化の境界に対しても、何ら配慮を示さない」ようなグローバリゼーションとしての「文化」という定義である。
 グリーンバーグによる「キッチュ」の定義については大いに議論の余地がある。だが、長くなるのでここではグリーンバーグが考えたアヴァンギャルドの使命にのみ注目することで、彼が考える「キッチュ」なるものを逆照射しつつ「キッチュ」を再定義することにしておく。
 「結果」ないし「効果」の模倣であるキッチュは、自らが何をしているのかを知らずに、アヴァンギャルドが不在の場において、アヴァンギャルドを転送しつつ、すなわち代弁し得ないものを代弁する。同一化し得ないものを同一化する(アヴァンギャルドである「〜かのように」)ところのキッチュにおいて、アヴァンギャルド(「能産的自然」)は、循環的経済を気前よく断ち切り、同じものの再生産としての静的な構造に活力を与えるような新たなる方向を指し示す駆動因・外因の遠い予感のようなものとして、実在しない予兆のような存在として、共同体の・法の外なる存在として、縛り付けられる。(「大地や海は、自然の恵みを惜しみなく、賃金を要求することなく与える」のである。)つまり、キッチュは、まさしく、それがどのようにして作られたのか何を目的としているのかわからないという主観における「効果」によって、芸術を装う。(自らは産み出すことのできない「利潤」ないし「利益」を簒奪し、私有化する。)言い換えれば、それは目的論的な理性を支えとしつつ、同時に当の理性を排除・追放・忘却することによって(「パレルゴン」の構造)初めて成立する。利潤の追求による生産手段の抑圧という一文を以上の意味に解する限りにおいて、キッチュは資本主義の産物である。キッチュは内と外の区別(枠)を前提としており、天才の芸術が枠の外に置かれることは、キッチュの利益のためには必要悪ですらある。
 こうしたキッチュに対して、「メディウム」がキッチュからアートを防衛し得るのは、「メディウム」によって制作のインスピレーションが与えられる*1から、言い換えれば、メディウムによって生成過程の必然とアイデアが与えられるからである。(だが、この考え、この結論はあまりグリーンバーグ的ではない。実のところその骨子において、グリーンバーグは単に、高級芸術の模倣不可能性を模倣する芸術が、大衆への迎合と大量生産による生産過程の抑圧(コストカット)を必要とするファシズムや資本主義にとって回収不可能・和解不可能な伝統に根ざしていると、さしたる根拠もないままに主張しているに過ぎないのであるから。つまり彼は、芸術という枠に守られた超越的な主体こそが、俗世を批判的に眺めやることができると言っているに過ぎない。グリーンバーグに見られるこのような‘後退’の一因としては、おそらく、メディウムからアイデアを得ること、事物生成の必然を導き出すことそれ自体は、なんら資本主義の原理に従った生産物と相容れぬものではないということが挙げられるように思われる。ゆえに、彼がアヴァンギャルドの優越を認める境界線はメディウムの振る舞いを引き出すこと、これに従うことにではなく、アヴァンギャルドの伝統と「無関心さ」に求められる。アヴァンギャルドキッチュと区別されるのは、グリーンバーグによれば、「アヴァンギャルドの芸術と文学の主な問題は、彼らが批判的すぎるということではなくて、「天真爛漫」すぎる、彼らに効果的なプロパガンダを注入することはできない」という点にあるが、こうした「天真爛漫」さを、芸術家は過去の芸術の過程と規律から得るのだとされる。この点については、ロザリンド・クラウスが「traditional」として批判するとおりである。)
 ここで脱線を終了し、本題へ戻る。グリーンバーグが「記述」するところによれば、モダニズムの絵画は「純粋さ」を目指して、芸術の自立と質を保証する(とモダニスト達が考えたであろう)平面性を強調することへと向かった。ところが、グリーンバーグによれば、(モダニスト達がそう考えているようには)平面性は絵画芸術の成功を保証するわけではない。「全ての絵画芸術」にとって成功の秘訣は、視覚的な三次元的イリュージョンと平面性の両立という「矛盾」にこそある。だが、クラウスが批判しているのは、この「矛盾」において「弁証法的総合」の場を占めるものこそが「視覚的なイリュージョン」なのではないか、ということであり、そこにはメディウムや対象を抑圧する視覚の専制があるのではないか、ということである。なるほど、グリーンバーグは次のように書いている、「古大家たちは、人がその中へと歩いて入っていく自分自身を想像し得るような[深さの]空間のイリュージョンを作り出したが、一方モダニストが作り出す[それと似たような]イリュージョンは、人がその中を覗き見ることしかできない、つまり、[リテラルにないし形象(figuratively)的に、]眼によってのみ通過することしかできないような空間のイリュージョンなのである」*2
 グリーンバーグによれば、絵画は平面性を維持しつつ、現実の空間の模倣でないような「視覚的イリュージョン」を生み出すことを模範としてきた。物質の振る舞いはアヴァンギャルドの薫陶を受けた視覚性に奉仕し、視覚的イリュージョンに先立たれており、その逆はない。クラウスはこれを批判している。なるほど、もしアヴァンギャルドグリーンバーグのいうようなものであるならば、そこには「歴史」を書き換えるような出来事、認識の拡張はあり得ない。*3クラウスによるグリーンバーグ批判に対し大筋において賛成するとしても、とは言え、既に検討したように、ブルトングリーンバーグを重ねて論じていったクラウスの辿り着いた先が、‘指標記号としての写真における物質的現前=〈記号としての自然〉’であるならば、グリーンバーグの立場ばかりでなく彼女の立場を支持することもまた、難しいように思われる。*4問題は、あいかわらず、要するに、芸術における創造(「天才」)とは何かということであるはずなのだから。(しかし、この問題は主体の崩壊という論点を前にして先送りされてしまう。)以下に採り上げるのは別の論点、エントロピーとシミュラクルという論理である。
 この一見まったくかけ離れた二つの概念は、クラウスによれば「擬態」によって結びつく。「擬態」についてよく知られた論説を想起すれば、ホミ・バーバ、ジャック・ラカンによるテクストを挙げることができるけれども、ここでは、彼女は「擬態」ロジェ・カイヨワに帰するものとしている。ちなみにラカンはカイヨワに言及している。ここでもう一つ重要なリソースはアーティストのロバート・スミッソン(1938〜1973)であるが、現時点で私はロバート・スミッソンについて研究中であり、ぶっちゃけあまりよく分かっていないため深く触れることができない。いずれ触れる予定ではある。(つづく)


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*1:芸術家がメディウムからインスピレーションを得るという発言について、グリーンバーグはH・ホフマンを参照するよう求めている。

*2:川田都樹子と藤枝晃雄による訳を尊重しつつ、改訳、および欠落部([ ]内)を回復。

*3:私が見る限り、『フォームレス』までのクラウスは創造や革命性を理由にグリーンバーグの視覚性を批判しているわけではない。後期の著作に至るまでは、彼女がグリーンバーグを批判する理由は今ひとつハッキリしないものだった。

*4:先に言及した座談会の中で、クラウスは自らが現在注目しているメディウムの理論が初期の理論と一致するかどうかはわからないと語っている。