ロザリンド・クラウス--批評の方法2

サツマカサゴ

(つづき)
 『シュルレアリスムの写真的条件』から抜き出した次の箇所は、クラウスによるシュルレアリスムの定義を要約してくれる。


 「もし我々がシュルレアリスムの美学を一般化しなければならないとすれば、《痙攣的な美》という概念が、その核心となるだろう。そのときシュルレアリスムの美学は、〈再現=表象〉に変換された現実の経験へと還元される。超現実とは、言わば、一種のエクリチュール(書かれたもの)へと痙攣した自然である。写真はこの経験に対して、現実的なものに対するその特権的結びつきという特別の通路を持っている。そのとき写真にできる諸操作----私たちが間隔化と二重化と呼んでいるもの----は、これらの痙攣を記録するように見える。そうした写真は、ハートフィールドのフォトモンタージュにおいてそうであったような、現実を解読しつつそれを“解釈する”ものではない。痙攣の記録としての写真はまさに、かたちづくられ、コード化され、書かれたものとしての現実そのものの現前化である。記号としての自然、〈再現=表象〉としての自然についての経験は、このとき“自ずと”写真にやってくる。」(小西信之の翻訳を尊重しつつ、一部改訳)


 シュルレアリスムの核心を成すという《痙攣的な美》とは何であるかを検討する前に、まず、ここでクラウスが「シュルレアリスムの美学を一般化しなければならない」とする理由を確認しておく必要がある。と言うのも、「シュルレアリスムの美学を一般化」することなくしては、そのことによって支えられ、そこを目指して駆動しているクラウスの全主張は自らを立たせられないのであるが、そうした一般化のための解読格子(枠)を持ち込むまでのプロセスが、実に怪しげなものに映るからである。(枠の持ち込みを正当化することによって、彼女は「絵画的コード」ないし「美術史的言説」から「写真」へと、シュルレアリスムの中心的価値を担う役割を移動させるのであるが、そこになにやら‘政局’めいたものが感じられるのはこれゆえである。)ここでさしあたっての目的は、クラウスによる論の運びを検討すると同時に、改めてシュルレアリスムの問題を洗い出してみることにある。
 クラウスによれば、「様式」という概念によって指し示されるような一貫性がシュルレアリスムには不在であるという事実に、シュルレアリスム美術を扱う言説は悩まされてきた。混乱の源はアンドレ・ブルトン(1896〜 1966)による『シュルレアリスムと絵画』(1928)*1にある。その後に続いた言説*2は『シュルレアリスムと絵画』にあった矛盾を反復しているに過ぎない、と彼女は言う。その矛盾とは、ブルトンシュルレアリスムを定義しようとするときの矛盾であり、窓としての絵画(イリュージョン)と「エクリチュール*3という二つの定義が対立することで顕わになる。クラウスが指摘する矛盾とは次のようなものである。ブルトンは、思考の計画的で反省的な足取りに対して、純粋で無垢な視覚の未開性(「野生の眼」)が「窓としての絵画」によって達成されると言う。「窓以外の存在としての絵画」を想像することは不可能だと主張することから『シュルレアリスムと絵画』は始まる。一方で、彼がオートマティスム(自動筆記)を評価する際には、オートマティスムが「エクリチュール」としての「計り知れないほど貴重な実体を紡ぎ出す」*4ことに価値が見出されるのだが、この視点に立つとき彼は、「だまし絵(トロンプ・ルイユ)」に対する嫌悪を示すにまで至るのである。「視覚と《再現=表象》、現前性と記号の優位性に関するこの矛盾は、シュルレアリスムの理論のうちにあるもろもろの混乱の典型である」と、クラウスは指摘する。
 つまり、ブルトンには「視覚と《再現=表象》、現前性と記号」の評価に関する矛盾と混乱があり、ゆえに、その解決のためには、「シュルレアリスムの美学を一般化しなければならない」のである。彼女が「シュルレアリスムの美学を一般化しなければならない」とする理由はこれが全てである。だが、なるほどブルトンが多くの異なる形式*5を次々にシュルレアリスムとして批評するとは言え、ブルトンシュルレアリスム論自体がクラウスの言うような形で矛盾しているかどうかは疑わしい。と言うのも、クラウスが指摘しているブルトンによる「窓としての絵画」と「オートマティスム」との間の矛盾なるものは、矛盾というよりは、知覚することと産出することとの間の差異だからである。言い換えれば、作品を経験する時間としての論理的時間(判断による結合*6)と、産出する時間としての物質的因果関係における時間(判断なしの結合)との差異である。シュルレアリスム史における論争はあっても、ブルトンがそのどちらかのみを高く評価するということはない、したがって、ある時は一方を高く評価しある時は低く評価するというような価値判断における「矛盾」もない。そのどちらか一方が欠けても、ブルトンにとって作品は語るに値しないだろう。*7ブルトンは次のように書いている。


 「霊媒たちからうけつがれたオートマティスムは、シュルレアリスムにおいて、二つの大きな方向のひとつとしてとどまるだろう。これこそは以前もいまも、すこぶる活発な論争をひきおこしているものなので、もうすこしたちいってその機能の考察につとめ、それにとって有利になる決定的論拠を審理に加えようとこころみても、遅すぎるということにはならないだろう。現代の心理学研究も最終段階にはいると、知られるように、鳥における巣の構築が、ある特徴的な完成に向かうメロディーのはじまりの部分と比較されるようになった。(あるメロディーが固有の構造を呈するのは、そこに他からの干渉がいくら加わっても、そのメロディーに属する音とそのメロディーに無関係な音とを私たちが区別するという意味においてであり、しかも、にもかかわらずそのメロディーが、それを構成する各音の特質の総体とはまったく別の、固有の特徴をおびて感じとられるという意味においてである。)私が主張するのは、図形によるものであれ言葉によるものであれ、オートマティスムというのは、個人の深い緊張をそこなうどころか、その緊張をおもてにあらわしてあるていど解消してしまうという利点をもち、‘律動的統一’(オートマティックなデッサンやテクストの中にも、メロディーや巣の場合とおなじようにそれが感じとれる)を実現することによって、目あるいは耳を満足させうる唯一の表現方式だということであり、しかも、感覚的特質と形態的特質とのいよいよ明らかな非区分性、知覚的機能と知性的機能とのいよいよ明らかな非区分性に対応しうる(そしてそのことから、それだけが精神をも等しく満足させうる)唯一の構造だということである。オートマティスムは、絵画においても詩においてもいくらかの計画的意図と協調しうるものではあるにせよ、だからといって、少なくとも‘裏で’オートマティスムが進行をとめているような場合には、シュルレアリスムを逸脱する危険は大きくなる。ある作品は、芸術家が精神物理学の全領域(意識の領域などはそのうちのごくわずかな部分にすぎない)に手をのばす努力をしたものでないかぎり、シュルレアリスムの作品とみなすことはできない。」(『シュルレアリスム芸術の発生と展望』1941*8 )


 一方に自然で、コードにもとづかない(無意識の)、判断なしの結合・産出があり、他方に選別し評価し判断する知覚がある。この差異は解消不可能である。(つづく)


人文書院http://www.jimbunshoin.co.jp/

*1:本文では原著邦訳共に1925年としているが、誤り。

*2:ここではW・ルービンのみが対象とされている

*3:ここでは自動筆記が生み出す書かれたものの物質性というほどの意味。そう解さないと、クラウスが何を矛盾と呼んでいるのかわからない。

*4:この記述は『シュルレアリスム芸術の発生と展望』’41に見られる。クラウスはこうした矛盾が一つのテクストの中で起きていると書いているが、どう考えても誤りである。彼女が抜き出した二つの箇所は、13年の時を隔てた二つの異なるテクストに属する。

*5:エルンスト、ピカソ、ゴーキー、マッタ、アンタイ、キリコ、マグリット、コーネル、タマヨ、ダリ、マン・レイ、ピカビア・・等々

*6:ブルトンにおいてそれはゲシュタルトであったり、想像の引力であるアナロジーであったりする。後に詳述。

*7:彼が「だまし絵」を批判するのは、それが対象の模倣すなわちコピーだからであり、ブルトンにおいて現実に従属するものとしての、あるいは現実の再生産としてのコピーに対する批判は常に一貫している。ブルトンの唯一の批評基準は、簡単に言えば、「ふつーでない、しかし、隠れた現実である」というものである。オートマティスムは「霊媒」から受け継がれたものなのだ。この点については後にまた改めて検討するつもりである。

*8:シュルレアリスムと絵画』所収 人文書院 邦訳1997 粟津則雄・巖谷国士・大岡信松浦寿輝宮川淳 訳