ロザリンド・クラウス--批評の方法(3)

argfm2008-05-07

(つづき)
 ブルトンから始まるシュルレアリスムの問題ないし「矛盾」は、「現前性」と「エクリチュール」に与えられた価値の相違に起因するような、安定した価値判断のヒエラルキーの不在という点にあるのではない。*1むしろ、ブルトンの矛盾とは、オートマティスムの定義における、無意識による産出と物質的因果性(ないし技術)との混同に因る。なるほど、自動書記(オートマティスム、「エクリチュール」)において、そこに物質的因果関係から生じた指標的連関としての断片が認められることはあるかも知れないが、なるほどそうした断片を‘無意識の産物’と‘比喩的に’言うことができる場合もあるかも知れないが、だがしかし、それは絶対に確実な仕方で「無意識」による産出物であるわけではない。たとえば動物や人間の足跡を比喩的に‘無意識の産物’と言うことはできても、それを無意識‘が’産出したと確実性をもって言うことは不可能である。「鳥における巣の構造」にゲシュタルト(メロディー)を見ることができたとしても、それを鳥の無意識による産物と言うことはできない。指標は夢ではない、ましてや、おそらくは精神分析に学んだブルトンが望んでいたであろうような(?)、「理性」(ブルトンにとって理性とは常に抑圧するものである)への抵抗が生み出した疑似餌としての夢(症候)ではあり得ない。こうした混同を示す一文を以下に参照しておこう。たとえば、ブルトンは『シュルレアリスム絵画の最近の諸傾向』(1939)において、「絶対的オートマティスムが造形の局面に姿をあらわした」との讃辞を述べつつ、次のように書いている。


 「前者ドミンゲスは、ちょうどガラス拭きの人夫や、家の工事がおわるとそのガラス窓に白い胡粉で花押をのこす職人のような管理されていない自由さ・迅速さをそなえた腕の動きで、だが何色もの絵の具を刷毛でつづけさまに運ぶことによって、もろもろの新しい空間を画布の上に定着させることに成功した。子どものころ、書物のなかの色刷りの流星の絵にじっと見入っていたとき以来、たえて味わうことのなかったあの純粋な魅惑の場所へと私たちをつれてゆくために、彼はもはや、ただそれらの空間に輪郭をあたえ、燃えたたせる労をとるだけでよくなったのだ。
 後者バーレンは、一枚の白紙の上に色インクを流し、その紙をすこぶる速い回転運動等々にさらす方法と、おなじ紙のあちこちに絵の具を吹きつけて散らすといった他の機械的方法とをかわるがわるおこなうことによって、蜂鳥のすべての火をあつめて輝くような、その網目組織もまた蜂鳥の巣さながらに精妙であるような存在たちを解きはなつ。
 エステバン・フランセスは、木材の板の上にまったく無秩序に色彩を配してから、得られた下地の面に、かみそりの刃で、おなじく任意のかき傷をほどこす。あとはただ光と影の部分をはっきりさせるだけにとどめる。ここでは、ある見えない手が彼の手をとって、この混成物に潜在していた大きな幻覚的形象の数々を解きはなつ助けをする。彼は音をたててはじけるような風景をひらいてみせ、ある神秘な河の流れにそって、私たちを三途の川のような金褐色の水面へとみちびく。」


 この批評文の中で、ブルトンが無意識の産物と物質的因果性(ないし技術)とを混同することはない。だが、それらの作品を「シュルレアリスム絵画の最近の諸傾向」として、シュルレアリスム作品に含めることは先に引用した一文に矛盾しているし、また、それらを「オートマティスム」と呼び続けることは、明らかに、「オートマティスム」の定義に矛盾してもいる。そこに混同がある。


 「オートマティスムは、絵画においても詩においてもいくらかの計画的意図と協調しうるものではあるにせよ、だからといって、少なくとも‘裏で’オートマティスムが進行をとめているような場合には、シュルレアリスムを逸脱する危険は大きくなる。ある作品は、芸術家が精神物理学の全領域(意識の領域などはそのうちのごくわずかな部分にすぎない)に手をのばす努力をしたものでないかぎり、シュルレアリスムの作品とみなすことはできない。」(1943)


 だがこの混同こそ、W・ベンヤミンからロザリンド・クラウスへと反復再生産された当のものではないだろうか。以下にこの点を検討してみる。(つづく)

*1:ここでクラウスがなぜ「矛盾」を必要としたのかということについての分析は、後に触れる予定でいる。