ロザリンド・クラウス----批評の方法(9)7/12(改)

argfm2008-07-11

 一日一万ヒットを目指すのだ。この文体で、この内容で。

(つづき)
 一体何が作品を作品たらしめるのか。終始記号論として、哲学として構想されたパースの論説にとってこれはそもそも問題とはならない、だが、美術批評家クラウスにとっては問題となる。たとえば、海辺のカモメの足跡とその足跡を刻み付けたであろうカモメとの間には、クラウスが言うような「現実‘との’特別な結びつき」という関係はなく、(クラウスの表現に従って言うなら)それらはどちらも「現実」でなければならない。二項の間に「記号」と「現実」の区別はない。だが、「現実‘との’特別な結びつき」における「‘との’」は、「記号」と「現実」の区別なしにはあり得ない。とすると、一体なにが「指標」ないし「痕跡」を生む因果関係において「記号」と「現実」の区別を発生させ、一方を「記号」として他方を「現実」として同定せしめるのか?
 枠による切り取りによって、「現実の諸部分を遮ったりずらしたりすること」によって、と、クラウスは言う。つまり、写真が「現実」と結びつきながらも同時に「現実」から遊離することができるのは、その「枠」としての機能ゆえになのである。クラウスは次のように説明する。「(写真の)フレームが示すのは、現実のうちの切り捨てられた部分とフレームが枠どるこの部分とに違いがあるということ、そしてこの部分が〈再現=表象としての自然〉、〈記号としての自然〉の例だということ」なのである。言い換えれば、枠・フレームとは指示代名詞としての‘コレ’であり、人々の注意を引きつけるための指し示しの「 」であり、引用・強調としての「 」である。「 」で括りうるという可能性ではなく、「 」で括ることが記号を記号とするのである。*1
 こうした論証によって、クラウスは写真が常に既に「二重化」されていると主張する。虚構化することなしに枠による切り取りはない、そう解するならば、この認識に対して異論はない。だが、クラウスの論旨の曖昧さはここにあり、「二重化」という語を無批判に受けいれるわけにはいかない。というのも、ここでは芸術作品としてのシュルレアリスムと写真一般が区別不可能なものになっているからである。彼女の文が辿る行程において、もはや写真はシュルレアリスムの条件なのではなく、シュルレアリスムそのものへと変質している。なるほど写真を指標記号の事例として捉えることは、パースに従う限り「記号論的に言って」マチガイではあるまい。だが問題となっているのは芸術作品であって、写真一般の記号論的考察ではない。写真一般の記号論的考察は、そもそも“芸術論でもなければ批評でもない”。ここでクラウスによる「二重化」の論理がトリッキーなのは、自らの論証にとっての事例をシュルレアリスム作品に求めていることにある。
 

 「シュルレアリスムの写真に対するいかなる説明も、この運動の機関誌に現れる操作されていない写真を含まなければ、不完全となろう----ボワファールの足の指の写真*2や、サルヴァドール・ダリのためにブラッサイが撮った〈無意識の彫刻〉や、マン・レイが『ミノトール』誌のために撮った帽子を被った人物のストレート写真のような作品をである。何故ならシュルレアリスム運動の心臓部の最も近くにあるのは、このタイプの写真にほかならないからである。」


 ここでクラウスが強調しようとしているのは、もはや写真に何かを付け加える必要すらなく、写真に撮るということそれ自体が「間隔化」(「二重化」)の、「代補」の行為を意味するということであるが、一方で、これらの事例こそ(のみ)が、シュルレアリスムの写真をかろうじて写真一般の記号論的考察から区別するところのものである。というのも、ここにクラウスが列挙した作品において、「カメラが枠取り、そうして見えるものにしているものは、世界の自動書記、すなわち不断に途切れることのない記号生産である」からだ。言い換えれば、「フレームが示すのは、言わば、世界の絶え間ないエロティックな象徴のエクリチュール、その不断のオートマティスムとでも言えようものを、見出し、単独に取り出すというカメラの能力である」。「世界の自動書記」なくしてシュルレアリスムと写真の区別もない。同時に、「写真」なくして〈再現=表象としての自然〉もないのである。クラウスが正しく「代補」と呼ぶ構造が見出される。「そこにおいて現実は、あの支配する代補、すなわちエクリチュールによって、拡張されると同時に置き換えられ、もしくは取って代わられたのである。写真というパラドキシカルなエクリチュールによって。」これが〈再現=表象としての自然〉、〈記号としての自然〉すなわち《痙攣する美》の「論理的構造」である。
 こうした「論理的構造」は、既に見た『芸術作品の根源』でのハイデガーによる芸術作品の考察と瓜二つである。ハイデガーにおける「あるがまま」が、ここでは「不断のオートマティスム」、「世界の自動書記、すなわち不断に途切れることのない記号生産」と呼ばれている。つまり、「世界の自動書記」に価値を、「〈記号としての自然〉の例」としての価値を与えているのは、「現実の諸部分を遮ったりずらしたりすること」という枠取りの図式において以外になく、この「現実の諸部分を遮ったりずらしたりする」という図式を可能にするのが、「オートマティックな生産」と「枠」との関係に他ならないからである。「下にあるもの」「覆われてあるもの」すなわち「無意識」は、それを「覆うもの」がなければ、超現実の「超」という優越的価値を、「下にあること」(「無意識」)という相貌を得ることができない。

 「間隔化」を「二重化」と同一視するクラウスの矛盾とは、「記号を書き込む瞬間を組織する諸々の現前性の総体との断絶力」として定義される「間隔化」作用のいわば核心部に、「現実との特別な結びつき」が、‘特別に結びついたものとしての「現前性の総体」’が、転送ないし転写によって‘現前する’とされている点であった。クラウスの論説は一貫して、表象批判ではあっても現前性批判ではない。「写真」は現実的な絆を持ち、そのことによって「おのずとやってくるもの」あるいは‘自然の産物’であるような記号としての価値を自らに与える。そうした記号と現実との特別な結びつきが、写真という「指標」において可能になるというのが、クラウスによって展開される論説の前提であり、核心である。クラウスの論理がデリダよりはむしろ『写真小史』にこそ依拠していると言い得るのはこのためである。*3すなわち、「写真の現実性は、そこにあったという現実性である。」*4
 こと作品において、‘かつてそれがあった’という事実は無差異を、‘何でもあり’を帰結する。たとえば、真っ黒(白)で何も写っていない写真を考えてみればよい。この語に耽溺していたロラン・バルトにおいてはセンチメンタルな感情移入ないし同一化を支える場として、それは機能する。だが、もし我々がリアリズムの文脈において写真を芸術作品として認めることがあるとしたら、それは、‘対象がそのようにあり得るということの無時間性(必然性、普遍性)’においてすなわち「反覆可能性」においてであり*5、そのような必然性に何かを認めた・あるいは作者の認識を超える何かを認めたという作者と対象の間の引力(「指標記号」)によってであって、枠によってでも、作者や対象の匿名性によってでもない。*6すなわち、「そこにあったという現実性」によってではない。そもそもロラン・バルトはそのことについて触れていた。「これはこのように起きたという絶えず仰天させてやまない明証性」として。クラウスにせよベンヤミンにせよ(バルトにせよ)、彼女たちがここでシュルレアリスム作品という文脈で取り上げた写真において、盲目的で理屈ぬきの強制による結合があるのは、シーニュが、痕跡が認められるのは、写真ではなく写真の対象となった「オブジェ」の方であり「都市」の方である。写真なしに「世界の自動書記」があり得る以上、写真はシュルレアリスムの条件ではない。*7だからこそ、「作家による形式上の介入を打ち消す」というクラウスの主張が問題発言となるのだ。もはや作家は何一つ作る必要はなく、考える必要も、感じる必要もない。ただ、「世界の自動書記、すなわち不断に途切れることのない記号生産」を実証的に、枠によって「写し」・展示するだけでよい、というか、そうせねばならないというのが、怒れるロザリンド・クラウスのご託宣である。だが、虚構化することなしに枠による切り取りはないのだから、「作家による形式上の介入を打ち消す」ことは不可能である。(これは‘リアリズム’ないしドキュメンタリーに常について回る問題であり、むしろ、ここで初めて作品としてのリアリズムが問われることになる。デリダに倣えば、他者のいない場所で他者について語ることの責任が問われることになる。たんなる表象の崩壊、不統一--すなわち語り得ぬ対象としての「かつてそれはあった」--としてではなく。)ロザリンド・クラウスの分析において失われるのは、‘対象がそのようにあり得るということの無時間性(必然性、普遍性)’および、それに反応した主体の存在であり、それらの「間隔」である。
 (つづく)



*1:クラウスが用いたこの図式は、『見る衝動/見させるパルス』においても繰り返される。

*2:これは英語版の表紙にもなっている。だが、そこに掲載された写真は「操作されたもの」である。画像を比較参照されたい。

*3:むろん、既に見たようにクラウスとベンヤミンではその結論も目論見も大いに異なる。また、デリダにおいては、そもそも「痕跡」とは一対一対応しないもののことである。「もはや縫い繕われるがままにならないエクリチュールのかぎ裂き、すなわち、痕跡が意味(たとえそれが複数であろうとも)によっても、どのような形態の現前によってももはやかぎ止めされることのない場、これを散種は終わることなく(目的なしに)開く。」(『書物外─序文』 藤本一勇訳 法政大学出版局

*4:『指標論 2』における、クラウスによるバルト「イメージの修辞学」からの引用。

*5:そもそもバルトにはこのような視点もあるのだが、クラウスはその箇所を引用しつつも誤読している。だが、後期の著作を見る限り、バルト本人ですら、混乱しているように思われる。

*6:だが、そもそもが物質的因果性の生起そのものではありえない(光学的な写像でしかあり得ない)こともあり得る写真において、対象のこうした物質的因果性を常に認めることには慎重を要する。ゆえに、文中の「もしも」を忘れないでいただきたく思う。それはあくまでも‘信’の次元に属するように思われる。

*7:そうである以上、ロザリンド・クラウスによる指標記号の有無を基準とした絵画と写真という「技術論的・記号論的」な区別は間違っている。