ロザリンド・クラウス----批評の方法(8)

argfm2008-07-06


 思い起こせば、クリフォードによる批判を読解することから始めて予定では3回くらいで終了するはずだった。

 
 (つづき)
 問題となっているのは「おのずとやってくるもの」である。そもそもブルトンによる自動書記(オートマティスム)とは夢や無意識を対象とする記述ではなく、夢や無意識を模倣しつつ、「理性」に対する他なる「思考」を生み出すようなシステムとして構想されたものだった。ブルトンは次のように書いている。「シュルレアリスムは、人間が或特殊な感動のとりことなって、突如として彼を無理やり不滅のもののほうへ投げ出す、あの〈彼自身よりももっと強いもの〉によって掴まえられてしまう、あの理想の瞬間を、人工的に作り出すことを何よりも強く望んでいるし、今後もやはり望みつづけるはずである。」*1むろん、ブルトンは夢や無意識の記述を諦めないだろうし、その意味で、彼の思考はしばしば自動書記による産出と無意識の記述(無意識による産出)とを混同してもいる。この混同をクラウスは批判する。というのも、クラウスが分析するところによれば、ブルトンの「おのずとやってくるもの」(「客観的偶然」)とは自らの無意識を指し示すような欲望の投影であるかぎりでナルシスティックなものに過ぎないからである。「人間の視覚というものが、それが眺めやるものの支配者であると考えられるのではなく、視覚がそこに宿されている有機体の内面に対して葛藤に陥るような」*2ものとして構築されていることを暴き出すこと、この点において、クラウスはブルトンにおけるその思考の条件を定義すると同時に‘乗り越える’。彼女がベンヤミンの『写真小史』を批判するのも同様の理由からであって、ベンヤミンは技術による産物としての視覚を「支配者」にしてしまったというのが、クラウスによるベンヤミン批判の要点である。とは言え、彼女のブルトン/ベンヤミン批判については検討が必要であり、ブルトンベンヤミンらによる「無意識」へのアプローチはクラウスにまで継承されているというのがわたしの考えである。この点については後に再びとりあげる。ここでは話が混線しないよう、まずはロザリンド・クラウスによる「指標」を援用したシュルレアリスムについての論説における目論見を確認し、そこに一定の評価を下すことが先決である。と言うのも、わたしの書いているこのテーマが単なるポストモダン批判として受け取られることは、議論の後退以外の何ものでもないからである。
 「写真」は「現実との特別な結びつき」を持ち、そのことによって「おのずとやってくるもの」あるいは‘自然の産物’であるような記号としての価値を自らに与える。記号と現実との特別な結びつきは、写真という指標記号によって保証されているのであり、写真に‘現前した’現実的なものは、「作品創作の際に作家がなし得る形式上の介入を打ち消す」*3。これがクラウスの唱えるシュルレアリスムの写真的条件である。ここで、「作品創作の際に作家がなし得る形式上の介入を打ち消す」というクラウスの言葉はまたしても問題含みであるが、その検討もまた、後回しにしよう。彼女が真に敵として定めているのは序文にあるように、アメリカの美術界において一世を風靡した批評家C・グリーンバーグである。とりあえずここではこの語を、視覚によって与えられた作品の非物質的な統一性というグリーンバーグ的な批評基準を批判するための論理として‘積極的に’捉えるにとどめよう。視覚的イリュージョンとしての形態によって与えられる作品の統一性、視覚の専制、それこそはクラウスが批判する当のものなのである。なぜならば、主観に帰されるところの形態による統一性は、自らが恣意的であるがゆえにその正しさ(普遍性)を歴史のなかの(美術史のなかの)範例に求めるほか無いからである。*4この閉鎖的ですべてを同質化してしまう視覚の専制に対し、「記号と現実との特別な結びつき」は「物質的存在」によって「主体」を侵犯しつつ、そのとき、「自身の環境に乗り移られるように、身体は崩壊し、溶解し、周囲の空間の写しを作り出す」*5のである。ブルトングリーンバーグが重ね合わされるとしたら、(作家)主体による主観の投影としての「見出されたオブジェ」ないし「視覚的イリュージョン」という我有化においてである。作家によるものであれ鑑賞者によるものであれ、こうした「労働や科学の世界における道具性によって汚染されない高み」*6あるいは「脱物質化」という専制に対抗するためには、主体の侵犯、崩壊を示すほか無い。これこそがクラウスにとってシュルレアリスム「擬態」の意味である。クラウスによれば、「擬態」とは「脱自」すなわち「エクスタシー」であり主体の崩壊なのであって、環境周囲への適応行動として解されるべきものではない。腐敗、崩壊(decomposition)は「表象への意志ではなく、変質への意志」であり、形態の崩壊は「「空間」の呼びかけに対する特異に心理的な応答」*7なのである。
 「指標」の性質、盲目的な理屈抜きの強制という性質がいかに重要であるかが理解できる。*8なるほど、理屈抜きの強制に基づいた、文にならない「命令や感嘆」あるいは叫びや悲鳴が、「無意識」(もう一つの主体)を指し示すことはあるだろう。パースによる第二性の定義を引けば、「それは二つの主体の間で生じる盲目的な作用・反作用である」かも知れない。突然の吐き気、手の震え、めまい、そうした挙措が、理性に逆らった、理屈抜きの強制による「無意識」への指し示しであるという認識は、ギャグマンガなどでおなじみの光景をギャグとして成立させるためには欠かせない。クラウスの言う「写真的条件」が教えているのはこうした「無意識」による主体の同一性への抵抗であると言ってよい。腐敗・崩壊としての脱自において経験されるのが、「おのずとやってくるもの」、「記号としての自然」である。そう読む限りで、彼女のシュルレアリスム観はブルトンシュルレアリスムという活動に含み持たせていた政治的行動としての「敗北主義」を汲み取っていると言える。これが「モダニズム」批判としてのクラウスの全批評に対する‘積極的な’読解であり、‘可能性’かも知れない。たとえ現代のアメリカ知識人たるクラウスの論説が「現実との特別な結びつき」を今や失っていたことが‘明白’だったとしても、政治的な正しさを求めるための行動の指針として、彼女の論説は(留保付きで)支持し得る。
 だが、問題となっているのはやはり「おのずとやってくるもの」である。「おのずとやってくるもの」であれば何でも良いというわけにはいかない。「おのずとやってくるもの」がやって来る場、この場はいかにして得られるのか、この場なくして何かが「やってくる」ことはあり得ない。(つづく)

*1:シュルレアリスムとは何か』 アンドレ・ブルトン著 秋山澄夫訳 思潮社 1994 

*2:『視覚的無意識』 『批評空間 臨時増刊号 モダニズムのハードコア 現代美術批評の地平』1995所収 小俣出美・鈴木真理子・田崎英明訳   〜以下『視無』と略記

*3: 

*4:「模倣によっては趣味は獲得されない。趣味の判断は、たとえそれが原型的な(範例的な)諸産出をその参照物とするときでも、自律的で自発的なものでなければならない。したがって、最高の手本、最高の雛形は、ひとつの理念(傍点)でしかありえず、この一つの単純な理念は、各人が自らのうちにおいてそれを産出しなければならず、また各人はそれをもって趣味の対象となるすべてのものを判断しなければならない。雛形は必要であるが、模倣は不要である。これが範例的なるものの論理であり、範例的なるものの自己-産出の論理であり、この産出の形而上学的価値は、つねに、歴史性を開き、そして閉ざすという、二重の効果をもつのである。各人は趣味の理念を産出するのではあるが、この理念はけっして一つの概念によってあらかじめ与えられはしない。すなわち、理念の産出は歴史的であり、それは一連のあらかじめの規定なき開始である。しかし、この産出は自発的で、自律的なものであり、それがその自由によって普遍的な根底に接合するときでさえも自由なものであるから、これほど歴史的でないものはない。」 『絵画における真理』より J・デリダ著 既出書  デリダによる、学習ないし一般性と自由な判断ないし決断とを巡る一連の議論は、後に再び取り上げる。

*5:『視無』

*6:『見る衝動/見させるパルス』 『ハル・フォスター編 視覚論』所収 榑沼範久訳 平凡社

*7:『視無』

*8:わたしはここで敢えてクラウスの意に沿うであろう形で、無批判にこの概念を用いている。