パレルゴン(21)

(つづき)
 作品において表象された靴が有用性を奪われているということ、その理由が絵画であることにおいてであろうと使用のシーニュが不在であることにおいてであろうと、実際的な使用からは切断されているということ、そうした一連の囲い込み(「立てること」、「覆いを取ること」、有用性の剥奪)によって、作品の内部に対してより一層の優越的価値を与えつつ人間中心主義(自民族中心主義、コンテクストの同一性)に基づく対象の選別を正当化し、同時に、その無用性(使用価値なし)にもかかわらず制作され提示された(交換価値あり)という事実とともに、そうした切断が、「アレーテイア」の運動を投影する欲望を、可視的で直接的なものを跨ぎ越す欲望を喚び起こす。*1すなわち、「 」によって切断し、「 」によって直接的に示されてはいないコンテクストがあることを示すのである。ハイデガーもシャピロも共に、こうして「開示」された‘コンテクストが存在するということ’そのもの(未来のものであれ過去のものであれ)を、ある同一性のもとにまとめ上げようとする。芸術作品とは、ハイデガーに従うなら人間のみに許された「世界」(「民族の歴史」)の真理(「あるがまま」)という‘諸理念’を運搬するための手段となる。シャピロであれば、画家ゴッホの「世界」という真理を運搬するための手段である。*2作品とは物神化、ブラックボックス化する働きとしての「 」と同義であり、彼らはいわば、そこに正しいタイトルを書き込もうとするのである。それが我有化である。
 ここで、デリダハイデガーによるゴッホへの言及およびシャピロとの論争という事例の中に出発点を定めたことの理由もまた明らかになる。投影、切断、可視的なものの跨ぎ越し、物象化等を、ハイデガーとは異なる仕方で考える必要がある。(つづく)

*1:にもかかわらずそれ(道具)が存在するという存在の真の理由を問うこと

*2:そうであるがゆえに、「あるがまま」を単なる苦労話・裏話と解することもまた可能であるように思われ、事実美術家李禹煥においてはその傾向にあるが、扱われる主題および考察が目指す理想との落差が大きいゆえに笑いを誘う。たとえば李は次のように書く。「漆器を最初買うときも、いろいろと好みや肌合いによって、互いは互いに選び選ばれるという両義的な関係を生みだすはずだ。が、それを使うと同時に使われる関係において、いよいよ他とは置き代えられない、開かれたものとなることが歴然である。漆器は、食卓で物をのせたり、棚の中に並べられたり、母や姉たちの手によって洗われたり磨かれたりする。こういった間身体的な交通のなかで、家や家族やそこにあるもろもろの事物と分かちがたく結びつき、ともに同じ空間同じ時間を営みながら、一つのひろがり一つのはばを実現する状態性に開示される。次第に器は、漆が剥がれたり地肌が顕わになるにつれて、ますます艶やかに輝き息づきながら、一つの家柄一つの歴史空間をくっきりと浮かばせる。ボードレールの交通照応(correspondance)を意識した媒介項、いわば「聖なる身体」(マルセル)的構造へと現成する 」。(p208 李禹煥『出会いを求めて』2000年 美術出版社)ただし、念のために付け加えておけば、私は李禹煥の作品全て、あるいは「もの派」と呼ばれる作品の全てを非難しているわけでは全くない。具体的な検討は別項に譲るとして、その理由の一端はこのタイトルにおいて後述する。