ロザリンド・クラウス----批評の方法(6)

ボワファール

(つづき)
シュルレアリスムの写真的条件』には結論として次のように書かれている。


1920年代のヨーロッパにおいては至るところで、現実に付加された代補的な何ものかが経験されていた。それが代補的な器具によって生み出される写真において一貫して体験され、積極的にかたちづくられたということは、この時期のヨーロッパの写真の驚くべき一貫性の説明となる----ときに提唱されるように異なった流派への分散ではなく。しかし、とりわけシュルレアリストが、その現実に付け加えたものは、再現=表象あるいは記号としての現実の視覚であったというのが、私のテーゼである。そこにおいて現実は、あの支配する代補、すなわちエクリチュールによって、拡張されると同時に置き換えられ、もしくは取って代わられたのである。写真というパラドキシカルなエクリチュールによって。」


 ここでのキーワードは「代補」であり、文中、彼女はこの語をデリダから借用した「間隔化」と結びつけて論じている。「間隔化」と「代補」を説明するにあたって彼女が教示する論説は、その後も様々に姿を変え、様々な哲学者たちの言説と混交され展開されてゆくのであるが、その目論見、論理は「ポストモダニズム」批評として流布している言説の一つの典型を成す。というわけで、この論理を検討しよう。
 「間隔化」は現前性を奪い、「一つの単位の別の単位に対する基本的外在性」において、それらを「結合すると同時に分離する媒介」である。クラウスは次のように書いている。


「間隔化は、同時的現前性を破壊する。何故ならそれは物事を、相次いでにせよ、互いの外部となって(個別の細胞に収まって)にせよ、順次的に示すからだ。間隔化こそが(ハートフィールドやトレチャコフやアラゴンブレヒトによってそうだったように)私たちは、現実を見ているのではなく、解釈や意味作用の群がる世界、すなわち、記号の形式的前提条件である隙間あるいは余白によって膨張した現実を見ているのだということを、明確にするのである」。


 「間隔化」はデリダからの引用であり、彼女はそのことを明記している。デリダが、間隔化によって現前性が奪われるというときのその意味とは、書かれた記号は「記号を書き込む瞬間を組織する諸々の現前性の総体との断絶力を含む」ということである。たとえば、写真として切り取られた映像もまた、それが写し取られたときの‘現在’というコンテクストを奪われている。つまり「言わんとする作用」を奪われており、言い換えれば一義的なコンテクストの同定(意図=志向の復元)は不可能である。「言表の現働性に意図=志向がかくのごとく本質的に不在であること----お望みならば構造的無意識状態と言ってもよい----は、コンテクストの一切の飽和を禁じる。」のであり、「こうした断絶力は書かれた記号を構成する間隔化に由来する」のである。デリダによればそれが「採取および接ぎ木の、つねに開かれた可能性」である。簡単に言って、「 」や( )によって語や文を括りうるという可能性、あるいは間接話法の不可避性、それが「間隔化」である。したがって、ここでクラウスが「間隔化」を「ハートフィールドやトレチャコフやアラゴンブレヒト」に、余白とコラージュからなるダダの「モンタージュ」に適用することはそれなりに正しいと言える。(ただし「間接話法」という次元は抜け落ちている。そしてまた、後述するように、「反復可能性」に対するクラウスの誤解が「間隔化」についての論旨の混乱を招いている。)「間隔化」こそが、作品に読解する時間を、作品を経験するための時間を構成する、と同時に、「間隔化」とは、複数の異なるコンテクスト、複数の異なる時間による事物の分割可能性を示すのである。だが、既にこれまで引用したいくつかの箇所において示したように、クラウスは「ハートフィールドやトレチャコフやアラゴンブレヒト」を単にシュルレアリスムの準備段階としてのみ評価しているのであり、彼女の言う「間隔化」はさらに説明を必要とするものなのである。クラウスの論理がはらむ混乱は、続けて彼女がシュルレアリスムを論じようとする段において明らかになる。



 クラウスによれば、シュルレアリスムの特異性は、「超現実」という点にある。したがって、シュルレアリスト達は作品を「写真的に読み取らせる、つまり、現実との直接的接触において生み出されたものと読み取らせる」のである。そのための戦略が「二重化」だと、クラウスは分析する。「二重化」とは、像を重ね合わせた二重像のことである。「二重像は、オリジナルのシミュラクルであり、第二のものであり、代理である。それは第一のものの後にやってくるのである。この追従において、それはただ物影または映像としてのみ存在し得るのだ」。「この遅延の感覚、現実を「息の間合い」へと開く感覚を、私たちは(デリダに従って)間隔化{強調の太字}と呼んできた」。「デリダに従って」と、クラウスは書く。だが、起源(「現実との直接的接触」)が再現において修復されること(直観や知覚の現前性)、連続的に、同質的に変様されるというような思考こそを、デリダは現前性の哲学(イデアを再現・運搬するものとしての記号についての理論)として批判していたのではないか。すなわち、「追従において、それはただ物影または映像としてのみ存在し得る」ようなものとして記号ないしエクリチュールを捉えるような‘思索様式’こそを、デリダは批判していたのではないか。(アルファベットは漢字を簡潔に経済的に省略したものであるというような。)この重大かつ決定的な語義変更について、「デリダに従って」いるクラウスからは一言の説明もない。こうした「二重化」(クラウスによれば「間隔化」とイコール。)の効果こそが、「同一のものの内部で芽生えるマルティプルの効果」へと導くと、クラウスは言う。だが、オリジナルとシミュラクル、少なくともクラウスに従うなら‘二つ’あるはずのそのどちらが、「同一のもの」なのか。どちらが「オリジナル」でありどちらが「シミュラクル」なのか。クラウスが言うように「写真というパラドキシカルなエクリチュールによって」現実は「拡張されると同時に置き換えられ、もしくは取って代わられた」のだとするなら、何がオリジナルでありシミュラクルであるかを写真において決定することは不可能なはずである。*1*2
 この決定はいかにしてなされるのか。「反復」によって、とクラウスは答える。たとえば赤ん坊が発する「PA」という「野生の音」は、反復されることで「PAPA」すなわち「記号」となる。オリジナルとシミュラクルの区別は継起的な反復によって可能になる、それがクラウスの論理が持つ前提である。むろん、この理屈はかなりこじつけめいている。「PA」が「野生の音」となるのは、「PAPA」を「記号」として認識した後にであるから循環論法である。したがって、「反復」によって「野生の音」が「記号」になるという主張は倒錯である。(同時に、盗作の論理でもある。)なるほどエクリチュール(記号)の条件が「反復可能性」にあるとしても、しかし、何かが反復されたという‘経験的’事実が「反復可能性」であるわけではない。クリフォードが批判した事例を見ても、それは明らかなことと思われる。デリダによれば、エクリチュール(記号)とは、「受け手達の経験的に決定可能な総体の、絶対的不在において反復可能で--繰り返し可能で--あるのでなければならない」。つまり、「反復可能性」とは「反復」の「可能性」である。したがって、もし写真を「エクリチュール」として見るならば、写真は何かを反復したという‘事実’によってそうであるのではなく、写真の構造において反復可能性を持つのでなければ「エクリチュール」とはならない。言い換えればこれは、「二重化」と「間隔化」をイコールで結ぶことが誤りであることを意味する。クラウスが写真の技術的多様性を考慮しようとしないこと、また、「絵画や彫刻」と「写真」とを区別する時の基準に見られる曖昧さなどは、すべてこの構造としての反復可能性(それが物質的因果性であれ論理的因果性であれ)を彼女が見ようとしないことに起因する。デリダによれば、反復を他性(他者)に結びつけるようなロジックの開発は、「反復可能性」に、「構造的に秘密であるようなコードは存在しない」という点にかかっている。だが、クラウスは後に(『指標論』において)自らの論理を「コードなきメッセージ」とまで主張するに至るのである。(つづく)



マン・レイの画像が見られるサイト →http://www.manraytrust.com/

*1:クラウスの論理は、作品を現実より真実に欠けるもの、真実の劣化した代替物として位置づけるような論理に属している。ところで、たとえば、ピカソが描いたガートルード・スタイン肖像画についてのよく知られたエピソードにおいて、スタインの肖像画と彼女自身の「現実の姿」との間に、どちらがより本質的で根源的であるのかを、どちらが「現実の影」・「見かけ」に過ぎないのかを、予め決定するような審級はあるだろうか。

*2:「シミュレーショニスム」を出発点とするすべての「ポストモダン」批評に対して指摘しうる誤謬。「シミュラクル」(コピー)をコピーとして認識するためには、観客とのコンテクストの共有が前提とされる。パクリないし盗作とは、コピーであるにもかかわらずオリジナルを僭称することである。そうした僭称は枠による保護・隔絶(たとえば国家はもちろんのこと、美術ないし美術界という枠)によって可能になる。