ロザリンド・クラウス----批評の方法(間奏)

(つづき)

 写真という物質それ自体はエントロピーの法則(物質的因果性における不可逆性)に従う。写真は色褪せたり、丸められたり、燃やされたりすることができる。だが、そこに写っている対象はそうではない。写真に写った限りでの写真の対象は、光学的写像である限りエントロピーの法則に従うことはない。たとえば、映画においてフィルムを再生する時間それ自体は不可逆的であるが、再生された対象の時間は可逆的なものとして表象され得る。既に確認したように、物質としてではない写像としての写真における対象は、言い換えれば「指標」としての写真に写った対象は、「視覚的イリュージョン」でしかありえない。(写真そのものは「視覚的イリュージョン」ではない。)光学的な転写としての物質的因果性と、そこに転写された対象の物質的因果性は異なるのであり、それらはそれぞれ異なる時間において継起し、異なる時間に属している。たとえ、水・土・光・空気が植物の原因であり、その生成に盲目的で理屈ぬきの強制による結合があったとしても、表象された対象としての植物がその生成する時間そのものを示すことはできない。植物のあるところ水・土・光・空気があると言えるのは、第三性(推論、解釈、法則)の次元を介してであって、パースに従えば、その時、表象された植物から水・土・光・空気の存在が推測されるとしたら、盲目的で理屈ぬきの強制による結合(指標記号)によってではない。(とは言え、ややこしすぎるパースの記号学はこの点で曖昧なままに終わってしまっているように思われる。)
 これは表象の問題である。今日未だに、写真のみならず文学や映画の自律性を主張する際に、クラウスに見られるこうした論理のすり替えは生産されつづけている。
 認識論一般としてではなく、すなわち哲学においてではなく、芸術作品において、イリュージョンとは何か?それは物質的因果性とどのような関係にあるのか?「労働や科学の世界における道具性によって汚染されない高み」あるいは「脱物質化」という専制に対抗しつつ、イリュージョンを考えるには?われわれは(この点に関して私は‘われわれ’の語を使っても許されるように思うのだが)、この問題に対してクラウスとは異なる答えを持つ。
 シュルレアリスムオートマティスムの可能性を残したまま、クラウスによって葬り去られるだろう。だが、シュルレアリスムについてはいずれまた戻ってくるとして、とりあえずクラウスのもう一つ別の戦略を見ておかねばならない。わたし自身この論説には足を取られたままでいる。そこではジャコメッティが、ピカソが範例となり、彼女の「方法論」にとっての理論的リソースはバタイユでありカイヨワである。(つづく)