岡崎乾二郎の絵画作品

(つづき)
 
 以上に分析してきたような諸要素間の機能的な連鎖・網状組織は、空間的に見られた諸分節と生成の時間から見られた諸分節とが異なるという特性を持つ。空間的に識別される或る色塊は、タッチとは独立に考えることができ、したがってタッチそのものではない。タッチはタッチであり、色塊は色塊である。たとえば、一つの赤茶色の色塊として空間的に識別される或る要素は、その生成のプロセスにおいては他の要素の生成を待つ必要があり、あるいは、自らを決定するために他の要素への迂回・参照を必要とする。したがって、その色塊がこの姿を取るのはいちどきにではない。これら画面上の要素をタッチと呼ばずに色塊と呼ぶのは、そのためである。
 互いが互いを規定し合うという点で、こうした網状組織の生成はデッサン(自然の模写)に似ている。(簡単に、たとえば立方体を立方体として描くための諸要素間の調整を考えてもらえればよい。)しかし、ここではデッサンのようにその外部に全体を統御するモチーフが予め与えられているわけではない。と言うのも、そこに参照すべきモチーフが確認できないからと言うよりは(そのこと----正確に写された/写されるべきモチーフが存在したか否かということ----はたとえ具象画であろうと単一画面内においては確かめ得ない)、画面上の全ての要素が密接に関連づけられ、その偶然性(恣意性)を巻き込んだ諸連関において自らを支えているからである。(ゆえに‘それ’は翻訳不可能である。)もう少し詳しく述べておこう。『不可能な角度(耳と目と口)』には、無意識的あるいは不可避的に生成したであろうような指標的な痕跡(Aを行った結果不可避的に生じたB)が散見される。(たとえば右上隅のはみ出した腫瘍のような絵の具であり、赤茶色の色塊に見られる‘塗り残し’である。)そこでは、こうした画面上で生成した不可逆的な変化・出来事に対する受動性と、これに対する‘読解’というアプローチによる出来事の尊重が、画面を生成させる要件になっているように思われる。たとえば、『平らであるという想念(お愛想はナシ)』(16×23×3.5㎝ 2007)のような作品においては、こうしたアプローチは作品を生成するための主な手がかりとなっている。*1つまり、網状組織としての諸関係を生成するプロセスは、物質的な生成の法の中にあり、物質的因果性の振る舞いを読解すべきものとして尊重している。なるほど、「自然」は認識を拡張する契機すなわち逸脱である。(ここでは〈画家=人間〉が〈自然=天才〉とされているわけではないという点に留意されたい。)そしてそのことが観察されるとき、予め与えられた超越的な図式ないしモチーフが作品を統御しているわけではなく、その生成において作品が形作られたであろうことが確信される。言い換えれば、‘それ’は何かを代理したり、代表したりするものではない(「差延」された現前性を目指していない)、ということが確信されるわけである。



『平らであるという想念(お愛想はナシ)』(16×23×3.5㎝ 2007)


 したがって、大ざっばに言って、ここで画面を生成させるための必然は二つあることになる。一つは前回分析した‘読解可能性’(反覆可能性)であり、もう一つは物質的因果性に基づく変化である。つまり、私が絵として見ているのは、我々が‘それ’に見出す見るべき何らかのものとは、物質的な振る舞いを読解し、図像や形態といった外的なコンテクストへの参照なしにこれを読解可能な形へと整えるというプロセスそのものである。(一義的な外的コンテクストを前提しないということが、「読解可能性」の条件である。)根を詰めた仕事、あるいは精魂込めた仕事としての評価を私に下させるものは、このプロセスである。(これが重要ではないと断言する者があるならば、その者は自らがかく断言するその理由を論理的に、作品の分析を通じて説明できるのでなければならない。)
 ところで、こうした一連の分析は、岡崎乾二郎の絵画作品においてかつて私に不思議に感じられたことの一つ、すなわち、抽象絵画におけるヴァルール(色価)の正しさという問題へと、導いてくれるように思われる。なぜ、抽象絵画であるにも関わらずヴァルールの正しさが感じられるのだろうか?もっともこの不思議さは、ヴァルールというものを、一般にそう思われているような、全体に対して配分された相応の値の正しさと解する限りにおいて、そう感じられるのに過ぎまい。かつての(今でも?)美大受験予備校などでは、ヴァルールをこうしたものとして教えていた。(私の通った美大はもっとひどく何も教えていなかったが。)ヴァルールが全体を想定せずとも決定し得るものであること、むしろヴァルールこそが全体を決定するのだということ、このことを、理論的ないし方法論としては、私は岡崎乾二郎の著作『ルネサンス経験の条件』から、あるいは彼がしばしば言及するジョセフ・アルバースの著作『色彩構成----配色による創造』から教わった。(つづく)

図版は『ZERO THUMNAIL 岡崎乾二郎』から

*1:この作品の不思議さ----たとえば絵の具があたかも一枚の布が裏返されたかのように見えること・その複雑な諸関係にも関わらず絵の具が乾くまでに描き上げられていることなど----、については割愛する。