岡崎乾二郎の絵画作品


 以前、私は当ブログにおいて、岡崎乾二郎の絵画作品を分析すると予告しておきながら、結局のところ断念してしまった。なぜかと言えば、その分析に長大な時間と膨大な労力を必要とすることが、作品分析を始めてすぐに明白になったからだ。二、三週間ほど形にならない文をこねくり回したあげく、そこまでしてブログに書くことに利益はないと、私は判断した。今日にいたっても、相変わらず何の利益があるわけでもないが、しかし、思い起こせば、これまで書き続けてきた話が未だ終わったわけではなかった。
 派閥、研究領域、学派、職種といった帰属関係から生じるもめ事から離れて、身びいきや強弁なしに、私が岡崎の作品に惹かれてきた理由を述べること。誰もが、おそらくは、どのようなものであれ帰属関係からくる偏見に一度は悩まされたことがあるはずであり、その不当な判定を覆したいと望んだことがあるはずである。この誰もが一度は望んだことのあるはずの目論見を達成すること、それがここでの私の利益である。
 冒頭で触れたように、岡崎乾二郎の絵画作品を分析するには膨大な時間を必要とする。したがって、ここでは説明の簡単のために、比較的要素の少ない小品を例に分析してゆくことにする。私が見る限り、大作であれ小品であれ、基本的には共通した或る「思考様式」ないし「法」ないし理[ことわり]が、そこにはある。その点を考慮するなら、私が選択した節約は、本質的には害のないものであろうと、私は考える。
 とりあえず任意に選んだ『不可能な角度(耳と目と口)』(15×18×2.9� 2005)という作品を、見てみよう。分析の全体像は次のようなものになる。(図1)すぐに察していただけるだろうが、ここで私は全ての要素について分析を施していない。いわば、不完全な分析である。不完全である理由は、これ以上、今の私に時間が与えられていないから、ないし私に必要な力が不足しているがゆえである。だが、この限定された分析によっても、その作品が持つ複雑なプロセス、制作における思索の密度、作品の妙を、たとえ私の文章がそれに釣り合うだけのものではないとしても、感じとってもらえるのではないか。



図1


 図1の全体像をこれから順を追って見てゆくことにする。『不可能な角度(耳と目と口)』では、あるいは私はこれは岡崎乾二郎の絵画全てについて言えることではないかと考えるのであるが、作品として与えられた要素から、全ての要素の位置や大きさや方向に対して、なぜこれがこれで無ければならないのかを、読み取ることができる。(少なくとも、読み取ることができるだろうという確信を得ることができる。)言い換えれば、AがなければBもないという、諸要素の関係における必然性が、個々の色塊のタッチや位置や方向、境界を決定するための条件になっている。こうした必然的な結びつきや、色塊間での互いの参照・異なるオーダーへの連繋あるがゆえに、誰もが、いつでも、どこででも、理屈の上ではそれをリプロダクトすることができる、ということになるだろう。(実際には、後に述べるような理由によって、作品それ自体を反復再生産することは大変困難である。)つまり、その作品を形成しているプロセスは、論理的必然として反復可能である。このことが、岡崎乾二郎の作品を言語的なコードに基づくことなく‘読解可能’なものとする。まずは、この点を以下により詳しく見てゆくことにする。


図2


 図2である。
 手始めに、画面左下の水色の色塊を決定するためのオーダーを検討してみよう。その外郭はいくつかのオーダーによって決定されているが、まずはその軌跡(運筆)に関するオーダーを見ておこう。この色塊は、画面右端に見える緑色の色塊同様に、楕円形によって自らの境界(タッチの軌跡)を規定されている。楕円が一つのオーダーになっている。(これら二つの楕円形は相似の関係にある。)ところで、楕円とは、或る事物の特定の関係によって生じる必然的な運動の軌跡である。楕円は、楕円上に採った任意の点に対する楕円内の二定点からの距離の和が常に等しいという性質を持ち、ゆえに、棒と糸さえあれば楕円を作ることができる。つまり、楕円は自然界に存在する自然発生的な規則性である。楕円図形がこの世に出現することは不可避である、と言ってもよい。(このような、いわば盲目的かつ内在的かつ用器画法的なタッチの自然生成は、岡崎乾二郎の絵画に多く見られるものであり、その生成方法の多様さが、作品の多様さそのものに結びついているのではないかと、私は思う。)
 さて次に、水色の色塊の大きさはどのように決定されているだろうか。図2に見られるように、キャンバスの外に付せられた木の部分を含めない画面(以下キャンバス面と表記)において、縦の長さを三分割したもの、これが水色のタッチを規定する楕円の短軸の長さになっている。そしてその位置は、キャンバスの外に付せられた木の部分を含んだ画面(以下画枠面と表記)右下隅の角[かど]を共有する、画枠面の縦の長さを一辺とする正方形によって得られる。この正方形の左下隅が、楕円の中点である。ここで用いられた画枠面ないしキャンバス面の縦の線は、右端の緑色の楕円の中点を通る長軸と重なっている。(と同時に、水色の楕円におけるタッチの変化によって、緑色の色塊と水色の色塊を規定するために用いられたオーダーとしての正方形が指し示されてもいる。)水色の色塊の上端はこの緑色の色塊の下端を水平移動した位置にある。
 つまり、それぞれ閉じた領域として識別される水色の色塊、緑色の色塊、キャンバス面、画枠面が、互いに、それぞれを生成させるための原因であり結果であるような形で(AがなければBもないという、諸要素の関係における必然性)、緊密に関係し合っているということである。論理的に言って、いかなる視点(主観、局所性)にも左右されずに不変であるのは、こうした諸要素の互いに支え合い定義し合う関係である。水色の色塊がなぜこれ(この大きさ、この位置、このタッチ)でなければならないかを示すためには、他のタッチ、他のオーダーへの迂回・参照を必要とするが(さもなければ、それは自らを定義することができないのであるから)、これらのコンタクト・インプロヴィゼーションによるネットワークが、最終的に画面を形成し、すべてを定義する。絵画を描く、あるいは絵画を見るとは、つねに新たな諸要素を画面ないし視野に迎え入れることである以上、それは常に変化し移りゆく。ならば、画家やビュアー[viewer]はその解釈以前に、そもそも自分が何を描いているのか何を見ているのかさえ、あるいは何を描いたのか何を見ていたのかさえ、見定めることはできないはずであろう。(美術作品においては、文学作品のようには分節を可能にする個々の要素の輪郭も、またその読解の順序も、決して自明ではない。)なるほど事実、この、いわば『薮の中』の状態それ自体を、作品の経験と考えるアーティストや批評家たちも存在しはする。(私自身、何度もこうした制作方法を試みたことがある。)だが、こうした‘経験’は反復不可能である以上、力を持ち得ない主観であるに留まるだろう。たとえば、およそ制作の経験がある者ならば誰であれ、(ビュアーもまた)、こうした状況にあって、過去の‘自分’の作品を見直したとき、なぜ自分はこれを良いと判断したのだろうと訝しがることのない者が果たしてあるだろうか。(ポロックですら、その晩年にはイメージによる安定を求めようと試みたのである。)変化し移りゆく諸要素の中で、唯一不変であり、言い換えれば作品を作品として同定するためのフレームとなりうる何かがなければ、作品は‘作品としての’力を持ち得まい。(外部の圧力--作者・モチーフの存在や風評あるいは歴史的な名作との見かけ上の類似などの--しか残るまい。)
 彼の作品においてはもはや、何が所与であり、何が‘偶然’であり、何が‘必然’であるのかという区別が無意味になっている。たとえば赤茶色の色塊に見られる塗り残し、あるいは画面右端に見られる緑色の色塊における楕円からの逸脱。その描かれた順序を同定することは困難を極める。(これが、先に再制作が困難であろうと私が述べた理由の一つである。別の理由としては、タッチの生成方法を見極めることの困難さが挙げられる。)つまり、偶然と必然という対立が無意味となるような場所(あるいは非-場所)、それが岡崎乾二郎の絵画作品である。以上が、私が岡崎乾二郎の絵画作品に繰り返し立ち戻り得ることの、言い換えれば、私が彼の絵画作品に惹かれ続け得ることの、要件を構成している。そこには文字通りリピーターを生み出すための力があると言って良いのではないか。作品におけるその思考の密度は、常に私を驚かせ、取るに足らぬ世俗のいざこざを忘れさせ、思索の徹底を心がけるよう私を叱咤する。(むろん、岡崎乾二郎の作品、あるいはまたアーティストとしての、批評家としての活動が人を惹きつける理由はこれだけではないにせよ。)さて、記述が煩瑣になり長大になることを避けるため、ここでこれ以上分析の記述をすることは諦める。最初に提示した図1をもって分析に代えさせていただきたい。(図1を見るにあたって特に注目していただきたい点は、朱茶色の色塊がどのように決定されているか、中央の黄色の色塊がどのように決定されているかという点である。)
  最後に、今回の分析の方法について述べておく。岡崎乾二郎の絵画作品は一見するとこうした厳密な諸関係に基づいて作られたもののようには見えないかも知れない。たとえばフィボナッチ数列によって諸形態の分節を決定されたジャッドの作品のようには、それはあからさまな形で見えては来ない。にもかかわらず、ここで試みたような分析を施してみようという気が起きるのは、直観的には、その作品が奇妙にもバランスが取れているように見えるからである。そしていざ分析を試みて驚かされることとは、まずは視覚的に見当をつけることで得られたオーダーに対して、分析を進めるにつれ、必ずやこれを規定する別のオーダーが見つかる、ということにある。(分析の段階において、したがって当初目測で仮設したオーダーは、分析が進むに連れ微調整されることもある。)私はここで全てを分析し終えたわけではない。また、その生成プロセスを正確に再現できたわけでもない。にもかかわらず、それが厳密な論理的構成物であるだろうという確信を与えられるのは、こうした他なるものによるオーダーの定義があるからである。(つづく) 


図版は『ZERO THUMNAIL 岡崎乾二郎』から