柄谷行人 × 岡崎乾二郎 対談

 東京の四谷にある研究所、四谷アートストゥディウムにて、『岡崎乾二郎対談シリーズ----5 ゲスト柄谷行人*1が行われ、聴講した。進行は、3時間ほどの枠の中2時間くらいを柄谷行人による講義が占め、残りの時間が柄谷と岡崎乾二郎とのやりとりで占められていた。今日の時点でネットで検索する限り、あまり対談についての情報は得られないが、冗談ともマジメともつかないネタのオンパレードであり、講義自体はなかなか和やかで笑えるものであった。だが、心苦しいがその雰囲気をここで伝えることに時間は割かない。
 柄谷の講義は、近々刊行予定である『世界史の構造』のためのアウトラインと彼自身が位置づける『世界共和国へ』*2のほぼ概説であったが、「交換様式X」により明快な認識が与えられている点において、『世界共和国へ』からの議論の深まりを示していた。その成果は『世界史の構造』で読むことができるらしい。期待しよう。
 『世界共和国へ』を読んでいない人のために「交換様式X」について、ここで簡単に説明をしておくべきだろう。(もちろん、この説明を読んだ以上、『世界共和国へ』および『世界史の構造』をもきちんと読むことを約束して欲しい。NAMにすら入らなかった私の解説をもって読書の代用とする事なかれ。)
 「交換様式X」とは何か?これは、「資本=ネーション=国家」というシステムに覆われた我々の現在を批判し乗り越えるために要請される、理論的可能性および理念である。我々人間を主体として構成するのは、柄谷によれば「交換様式」であり、そうした「交換様式」は3つ、もしくは4つあるというのが、柄谷の議論の大前提になっている。ここで問題となっているのは批判の原理、問いの根拠である。つまり、経済活動する[労働する]主体(資本)、友人・家族・グループや社員および近所づきあいする[言語や風習・慣習を共有する]主体(ネーション)、国民として統治し統治される[生命である]主体(国家)としての我々は、それぞれの主体を批判し乗り越えるための根拠をどこに見出すことができるのかという問い、それが「交換様式X」に賭けられた賭け金である。(ゆえにこれは批評家を名乗る者に限られることのない批評というものの〈普遍的=遍在的〉な問題でもある。)
 私は、柄谷の議論は根本的に暴力批判であると思う。私は正義や正当性を振りかざすための論拠としてではなく、暴力批判論として(ということは「正義」を批判する「正義」、理性を批判する理性として)柄谷を読んでいる。資本主義経済の暴力があり、ネーションの暴力があり、国家の暴力がある。ところで、話が簡単ではないのは、こうしたそれぞれの暴力が、互いに互いを補完するような形で密接に結びついているという点にある。(柄谷はこの構造の発見をヘーゲル『法の哲学』に帰している。)言い換えれば、資本の正義、ネーションの正義、国家の正義もまたある、ということである。ゆえに、その揚棄は簡単ではない。たとえば、資本主義経済による暴力(格差*3および、利潤の追求という目的による労働の統治・支配)はネーションが存在することで、ネーションによって、解消はされないまでも補完される。(『釣りバカ日誌』のハマちゃんとスーさん[みたいな]ものであろう。)だが同時に、贈与と返礼という「交換様式」から成るネーションは無時間的であり、共同体の変化を認めず、他の共同体に対する競争力もない。ゆえにこうしたネーションによる暴力に対しては[抽象的労働力に換算された]「自由な」交換にもとづく資本主義経済が有効に働く。(金さえ払えば誰でも何でも買うことができるのが資本主義経済である。)
 国家は他国との関係において国家である以上、戦争という暴力においてその本質が現れると、柄谷は言う。略取と再配分(保護)を独占するという国家の「交換様式」が何を意味するのかがハッキリするのはこのときである。(我々の税金が民意を無視して―政府など機能しないものとして--人殺しに使われる。)これは、戦争という「例外状態」のみが問題なのではなく、常に既に独占された暴力のあることが、戦争において誰の目にも明らかになるというだけのことである。国家という目的がある限り、その目的から自動的に産出された政策がより優秀であるということになる。これがすなわち、官僚主義である。(柄谷はこの論理をヘーゲルの『法権利の哲学』に見つけている。)一方で、国家は資本制経済が生み出すことのできない「生命」(労働力)を保護し、資本制経済からはこぼれ落ちるものを「保護」するという役割をも担うという点において、資本やネーションにとって(あるいはこれらに対して)補完的に、有用に働く。
 柄谷の議論は歴史記述であると同時に理論的でもあるという複雑なものであるから、詳細は彼の著書をあたっていただくことにして、「解説」はこのへんで切り上げる。むろん、批判もお待ちしている。(あまり複雑なことには応えられないかも知れないが。)本エントリーでの要点は、三つの交換様式がそれぞれ暴力的でありつつも、互いに補完的であり循環する構造を形成しているという柄谷の理論を簡単ながら確認することにある。ここで問題は、それぞれの交換様式によって生じる諸々の暴力それ自体が解消される術を、この構造は備えていない、ということにある。柄谷を読むと(柄谷ばかりではないが)憂鬱な気分になるのはこのためだ。さて、対談へと話を戻すことにしよう。
 柄谷によれば、これらの暴力を批判する原理が「交換様式X」である。「交換様式X」とは、返礼なき贈与である。たとえば格差は、単なる贈与によっては解消されない。贈与物が消耗した場合、受け手は新たな贈与物の供給を待たねばならないからである。つまり、贈与者に従属する結果にしかならず、受け手に対して従属という形での返礼を求めていることになる。これに対して、返礼なき贈与とは、生産手段あるいは生産の技術そのものを贈与することである。(柄谷が示した事例ではないが、たとえば井戸の作り方を教えることなどがそうであろう。)知の贈与、知の共有、それが返礼なき贈与の一つの事例である。あるいはまた、「憲法9条」は、世界に対する贈与である。ここで「返礼なき」とは、利害関心の外部であることを意味するのだろう。つまり、「憲法9条」が軍備にカネを掛けなくて済むという経済的理由などに基づくものではないことを意味するのでなければならない。戦争する主体・主権を放棄することでなければならない。そうであるがゆえに、この贈与は受け手(戦争する主体・主権を放棄していない諸外国)にとって負債となり、受け手を一挙に債務者にするだろう。*4
 これに対して、岡崎から「贈与」とは、それが何であるか(良いのか悪いのか)分からないというところがないと贈与にならないのではないか、という質問が為された。『すもも画報』でもこういった問題の周りをあれこれと遍歴しているわけだが、私見によれば、これは芸術や批評に関する本質的な問いである。今回の対談で私が最も知りたかったのが贈与とは何か、ということであったから、この質問には内心興奮したが、時間切れで議論は進まなかった。贈与が贈与として認識される必要が、そのための条件や契機といったものがあるのではないか、私はそう思うのだが、柄谷は否定的であった。(「贈与を贈与として認めないヤツなど、どうでもよろしい」というようなことを述べていた。)このあたりの問題は未だ議論の余地があるように感じられる。たとえば、カントの人間中心主義の核心は、搾取する対象としての自然を人間の目的への「贈与」とみなすこと(「目的なき合目的性」)にある。一方で、柄谷は「X」とはフロイトの言う「抑圧されたものの回帰」である、などとも言っており、『世界史の構造』を読まずしての予断は控えたい。次回がある、と岡崎は言っていたので、期待しよう。
 さて、「贈与」が批判の原理についての問いと答えであるとすれば、一方で「国連」はいかにして理念を現実社会へと落とし込むかという方法についての答えであろう。柄谷によれば「国連」は主観的に生み出されたものではなく、戦争によって生まれた現実的な存在である。たとえ主観的な集団によって占められているにせよ、そのことは「国連」の意味を否定する理由にはならない。だがここで私のバカっぷりを曝すことになるのだが、私に興味深かったのは「交換様式X」であり「贈与」であって、標題に謳われた「世界同時革命」のための「国連」ではない。というのも、私には「国連」についての知識があまりに乏しいからである。さらに言えば、それは「法」の問題であって、法の根拠についての問いではないように思われる。とは言え、柄谷の言う「国連」を否定するつもりもない。一国内での革命が失敗を運命づけられている以上、国家を管理する組織としての「国連」に具体的な力を求めるというのは、論理的に間違っているとは思われない。「正義」は力を持たねばならない。たとえそれが永遠のアンチノミーへの道程だとしても。

*1: http://www.artstudium.org/news/2010/02/4_2.htm

*2:岩波新書

*3:生産手段の独占・寡占を言う。たとえば、賭場の胴元とギャンブラーとの間には根本的な格差がある。ギャンブラー同士の勝ち負けは、主観的にはいかに大きかろうと、程度上の差異であり格差ではない。総体としてのギャンブラーが負けることに変わりはない。

*4:たとえば、我々日本人は在日アメリカ軍のためのアメリカの出費に感謝する必要などみじんもない。アメリカの戦争が‘作り出されたもの’であることは、イラク戦争を見た者には----ということは、今日投票権のあるほとんどの日本人にとっては----もはや明白である。戦争する主体を放棄しない彼らを憐れみこそすれ。・・・・・ちなみに、柄谷さんがこう言ったわけではありません、柄谷さんの主張に触発された私が敷衍して言ってます、念のため。まあ、柄谷さんが言ったようなもんですけど。