SYNECDOCHE, NEW YORK+パウル・クレー +ミシェル・フーコー

 行きがかり上、簡単にフーコーについて書いておく。私はシロウトだから、ほとんど既知の事柄の確認のようなものでしかないが、それでも、いわゆる「フルボッコ」を多少は覚悟して書く。いずれ専門家が書いてくれるだろうより充実した議論に期待しつつ、しかし、退屈と思われることを懸念しつつ、必要のため仕方なしに書いておく。                                    


 従わねば殺す、のではなく、‘好ましい’主体を作り出すための「装置」を作り出す、それが「生政治」の目論見である。ミシェル・フーコー(1926〜1984)の言う「生政治」とは、簡単に言って、統治(政治的主権の行使)が自らを正当化するための否定項を生みだし、その境界線に基づいて人々を主体化する目的において諸々の「装置」を作り出すことにある。(主体とは技術や装置によって間接的に構成されるものである、言い換えれば我々は「生命」と「言語」と「労働」によって構成されている、それがフーコーの大前提であり、この前提に異論の余地はない。)こうした論理が法権利と統治実践という二重性をはらんでいることについての指摘を、ハイデガーの読者であったフーコーは忘れてはいない。主体あるいは主体化とは、つねに統治者と被統治者との間の闘争(取引であり、集団的意志表現や、各私性の自由が賭けられた論争)の場である。ゆえに、フーコーが批判するのは主体化の論理そのものではない。狂気と精神医学、犯罪と刑罰、あるいは哲学的言説などの分析において、境界線が引かれ、「装置」が作り出されることで、どのように「我々」(「人間らしい生」)が構成されてきたのか、「我々」とは何か、それが問題である。(当然ながら、福祉や医療、精神分析などが必要ないなどと言っているわけではまったくない。また、「権力」とは、フーコーの場合、たんに支配-被支配の関係を指すのではなく、弁証法的に互いが互いに影響を及ぼす―一方が他方の行動を「指揮する」--ような関係を指す。「権力」の外部はないし、「権力」がそれ自体悪いわけでもない。)
 『生政治の誕生----コレージュ・ド・フランス講義1978-79----』*1において彼が批判する「生政治」とは、政治が、その主権の根拠を問われることなく、市場経済の運用を目的とした国家存続と発展のための手段として正当化されてしまうような統治のあり方である。*2講義の中で彼が分析するのは新自由主義(「ネオリベ」)と呼ばれる政治経済学の発生であるが、この分析対象自体は、今日においては様々な場所で頻繁に採り上げられ分析・批判されているものであるから、ここであえて事例を挙げて稚拙な説明を加える必要はあるまい。フーコーが提起する問題の本質は、新自由主義という名の政治経済学が国家の存在を理由付けする(合目的化する)ことによって、主権の基礎付け、正当化がもはや問題ではなくなることにあるが、このとき、問われないことで自明になった(なっている)ものとは、市場の公正、競争の自由という「正義」である。*3新自由主義国家の辞書に平等の語は存在しない。)
 フーコーによれば、第二次大戦後のドイツにおいて、まさに国家が国家としての正当性を失い、自らを根拠づけることができなくなった場所で、国家不在の場所でいかにして国家を立ち上げるかという議論が生まれる。この議論こそが、市場経済に基づいて国家を構想することすなわち、新自由主義の発生であった。*4


 それが抵抗や自由であったとしても、自死に希望があるわけではない。経済活動あるいは経済活動と見なされうる労働そのものが悪であると言えるほど事態は単純であるわけでもない。問題は、発生の起源を反復することではなく、いかにして発生をやり直すかということにある。フーコーによれば、他なる真理を、諸々の規則の総体として提示すること、主権の根拠を問うこと、そこに希望が賭けられている。抵抗や自由の余地が必ずあるのは、抵抗や自由がなければそもそも「支配」すら成立し得ないからである。支配とは二項以上の関係なのであるから。
 「権力」の外部はないし、「権力」がそれ自体悪いわけでもない。(権力関係のない恋愛も、師弟関係も、友人関係もない。法権利と統治実践の二重性、アンチノミーがなくなることはない。「権利(=法)と秩序との両立の夢は、私の考えでは、夢の状態に留まらざるをえない。」*5そうフーコーが述べるのは、それが政治の次元において語られているからである。

*1:慎改康之訳 筑摩書房

*2:要は、『ワールドビジネスサテライト』----日経新聞系列のテレビ局で放送----が政治に示す関心のありようを思い浮かべてもらえればよい。昨夏の選挙報道番組でおそらく唯一、経済成長を主題に討論していた番組である。『ワールドビジネスサテライト』は‘現在形’であるがゆえに面白いが、ゆえにまた、こうした負の側面がつきまとうものであることも忘れてはなるまい。

*3:どれほど理念的歴史的に相容れないものがあろうとも、「ベーシックインカム」と「負の所得税」はここで一致してしまう。つまり、抽象的な労働力をそれとして維持するための、格差の固定化である。ホリエモンが「ベーシックインカム」に賛成するのは論理的に考えて当然なのであり、平等ではなく「最低限の権利」を主張する論者が彼に対抗できないのもまた、当然なのである。「ゆとり教育」なるものも、生産手段を得る(組織する)ためのアプローチから或る特定の人々を遠ざける戦略として理解することもできるし、事実、そう解釈する人々もいる。(私も、そう思う。)

*4:この講義が行われた時期のフーコーは、国家権力(生政治)に抵抗し得る力として市場の合理性による権力の規制すなわち新自由主義経済に対してどちらかと言えば好意的であるように読めないこともない。国家嫌悪、「反権力」の旗手、権力の「ゲーム」を分析し、権力を拒絶するフーコー。しかし彼が分析しているのは、そうした新自由主義の起源たる「オルド自由主義」が、米国やフランスにおいて、いかにして経済の外部を消去せんとする国家権力(生政治)と結びついていったかということである。生きたくもない生を生きることを拒否する権利、それがフーコーの言う「死ぬ権利」である。

*5:ミシェル・フーコー思考集成 10』 「自由の実践としての自己への配慮」廣瀬浩司訳 筑摩書房