SYNECDOCHE, NEW YORK + パウル・クレー

 私は以下でクレーについて、クレーの方法論は○○と混同されるべきではない、といった仕方で彼の方法論を理解しようとしているが、これは可能性を探究するための方便であって、クレー自身の制作においては、私が可能性と見なしたものと、混同されるべきではないと見なした○○とがつねに混在している。(私がクレーについて書こうとするといつも泥沼に腰まではまったような気になるのは、おそらくこれゆえである。良いのか悪いのか判断を保留するけれども、クレーとは、ともかくも論争の場であることだけはハッキリしている画家であると、私は思う。)


 時間を止める。クレーの絵画が目的としているのは、そういうことである。おそらく、そんなことは「作品」にのみ許されたことである。政治であれ人生であれ、おそらく、‘現実’に時間を止めることは許されない。だが、だからこそ、「作品」が必要とされるとも、言えるのではないか。


 画家のパウル・クレー(1879〜1940)は、自らの制作方法を「コロンブスの魚」と呼んだ。彼によればこの制作方法は画期的なものであり、未だかつて誰もこれを発見し得なかったという自負を彼自身は抱いていた。簡単に言えば、「コロンブスの魚」とは絵描き歌である。棒が一本あったとさ、という、あれである。*1絵描き歌と「コロンブスの魚」に共通しているのは、画面上に次々と現れる絵の読み替え(諸要素の機能的連関に基づく増殖)によって画面が生成してゆくことであるが、とは言え、「コロンブスの魚」には絵描き歌と異なる点がある。クレーによって用いられた諸要素はバウハウスでの講義録などで参照することができるが、時間の様々なタイプである。たとえば指揮者が振るタクトの軌跡であるとか、楽譜を線描に置き換えたものであるとか、結節点が緩められた格子に力を加えて変形させたものであるとか、階段を上るにつれてたまってゆく疲労感、などなどである。クレーが絵画としての時間を作り上げるために用いる諸要素は、「葉っぱ」や「棒」といった記号ではない。(したがって、東浩紀の言うような「データベース」として共有された「萌え要素」でもない。*2


 クレーが制作に用いる単位は、或る特定の主観的集団に参加することで読解可能になるような何かではなく、何でも良い何かであるような時間のタイプである。これはちょうど、ゲームの中で局所的な目的を達成するために生じる、実践としての、必勝法や定石としてのルール(法)のようなものである。必勝法や定石は、目的達成のためにはつねに偶然と格闘することになる。つまり、ゲームの相手がどう振る舞うかによって失敗したり成功したりする。また、これらは物理的な条件や、時間的空間的な条件を考慮して組み立てられる戦術である。こうしたルールは、機能性に基づいて、実践的に生成し、発明される。


 クレーの絵画は、時間と空間を形成するための諸要素の関係=生成にこそ価値を見出すものであるがゆえに、たとえ具象的なイメージがあるとしても抽象絵画である。[と、クレーは考えた。]クレーによって採集された様々なタイプの時間は、画面上で併置され、関係づけられることによって、新たな現象を生み出す。画家の関心の対象は、そこにある。クレーの絵画には、局所的な目的がある。たとえば、『L(ルツェルン)近くの公園』(1938)という作品では、線と色彩として区別された二つの系列ないし時間のタイプがあり、線描と色彩は互いを契機としながら自らを変形してゆく。簡単に言って、これはそれぞれ異なる独立した時間が、或る一つの場において組み合わされることによって新たな文ないし寸劇を生成することに似ている。「三方よし」である。また、クレーは、ダジャレ的に意味を欠落させた反復を利用することによって、異なる時間を結びつけることも試みている。


 諸要素を組み合わせるための媒介となるような単位は作品ごとに異なる。したがって、組み合わせ方も様々なものになる。複数の時間のタイプを組み合わせねばならない理由とは、それこそが「自然」を「自然」たらしめるリアルな法則だと、彼が考えていたからである。(ゲーテの『形態論』からの影響と思われる。)なるほどフォーメーションだけではゲームにならない、つまり、時間は流れない。クレーが描こうとしたのは時間の流れである。フォーメーションの根拠を問うこと、それが流れる時間を形成する。一つのフォーメーションへの問いは外から、他なるものからやってくる。


 だが、いったい、こんな絵画はどこに向かうのか、どうやって終わるのか、この問いが、制作において賭けられた画家の賭け金である。延々と生成変化してゆく自由放任の時間を終わらせるための術をどうやって見出すのか?答えの一つは、切り取ること、である。画枠であるとか、画家に訪れたイメージであるとかいった、制作の時間にとっての外的な条件によって、作品に対してムリヤリ固有性(刻印?)を与えることである。たとえば、クレーが一つの画面を切り取ることで複数の作品に仕上げていたことが、研究者によって指摘されている *3。これはつまり、ゲームにおける時間制限や回数制限と同様の、完結させるためのルール(法)、「オリジナル」を分割する外的な条件に依拠する解決である。


 刻印ではなく、作品の特異性を、時間の特異性として、〈生成=変容〉それ自体として、作品自らが示すこと。ゆえに、作品を作品として統御する何かが必要となる。しばしば、クレーにおける作品の統御は批判の対象となってきた。たとえば、アクションペインティングの祖としてクレーを評価したローゼンバーグにとって、それは大衆迎合のためのイメージとして酷評さるべきものであった。*4しかし、問題はローゼンバーグがそう考えたほどには、単純ではない。

 作品を作品として統御する法には、二種類ある。ひとつは制作を開始するためのルールであり、ゲームで言えば、たとえば一チーム11人であるとか、これこれの条件を満たす四角いコートを使わねばならないとか、オフサイドであるとか、ノックオンであるとか、これこれの時間内にゲームを終わらせねばならないとか、そういったものである。退場のルール(局面からの一次退場、野球のアウトのようなものも含まれる)などはここで定められる。こうしたルールは、ゲームを行う者達(プレイヤーであれ主催者であれ)の行為(権力)を制限する力を持っている。その根拠が不明であるような、すでに与えられたものとして(ちょうど我々の使う「言葉」がそうであるように)、それは存在する。もう一つは、画面上の出来事に対して、自らを根拠として全体を統御する中心的な原理(権利)ないし中心である。手っ取り早く言えば、「オチ」であり、「サッカー」や「将棋」といったゲームに与えられた一つの名である。クレーにとっては、それは天使やエイドラ(幻影―故人への--)といったそれぞれの制作において発明された固有のイメージである。


 ゲームの終わりとは、それ以上どちらも手を下してはならないという状態のことである*5。つまり、ゲームを一つの運動として捉えるならば、それ以上運動を続けることはできない、という状態のことである。この終わりの状態はゲームを統御するルール(法)によって定められる。もしプレイヤーがこのルールを理解していない場合、ゲームは成立しないし、終わらない。(落語に、将棋の下手な二人が王を取ってまだ将棋を続けるという噺があるが、あれと同じ状況になる。)競技という意味でのゲームにとっては、勝敗こそが目的であり、内容(時間の流れ)は手段に過ぎない。ゆえに、勝負に勝って試合に負けるなどという表現があり得る。だが、クレーの絵画の可能性は、少なくともこの意味においてはゲームではない。というのも、賭けられたものの真価は、制作が自ら己を統御する術(法)を見出すことにあるからだ。(ドゥルーズは、彼なりのかなりの「誤読」を含ませた表現でではあるが、クレーの作品を民衆を創出するもの、と呼んだ。)それ以上運動を続けることはできないという分割不可能*6な‘各一性’を獲得することこそが、真に賭けられたものである。ゆえに、「オリジナル」を分割する外的な条件に依拠するのではない方法が求められる。


 定石・必勝法としてのルール(法)、そして、ゲーム(制作)を開始するための、すでに与えられたものとしてのルール(法)、そして、ゲームをゲームとして(作品を作品として)成立させるための、‘各一性’の価値。クレーにとっては、個々の作品における全体が‘各一性’(世界)として統御され得るような何ものかの価値をいかにして獲得するかということが問題だった。すなわち、時間を経験するために、時間を止めること。そんなことは、人生や政治においては許されまい。だが、人生や政治にとって必要不可欠なものであるに違いない。

*1:高野文子に『棒がいっぽん』という漫画がある。つまり、そういうことである。

*2:東浩紀の『動物化するポストモダン』で私が納得し得ない点は、彼が「オタク文化」をオリジナル無きシミュラークルの世界であると言っている一方で、「オタク文化」が成立するためにはキャラクター設定が必要とされていると書いている点にある。そこで言われる「キャラクター設定」および「萌え要素」こそ、「オリジナル」ではないのか。つまり、彼の分析する「オタク文化」とは、オリジナルに支えられたコピーの世界ではないのか。どうしても理解できない点である。

*3:『Paul Klee. Im Zeichen der Teilung 』ウォルフガング・ケルステン、奥田修 著

*4: ローゼンバーグは『荒野は壷の中に飲み込まれた--大衆状況の中の美術--』(桑原住雄訳)のなかで、クレーが自作に与えた具象イメージを「彼が属していた時代と場所の美学的偏見の圧力」への順応であり、「作品の本質的な概念を損なう」として非難している。彼によれば、作品の構造を鑑賞するためには「分かりやすい<主題>のように見える筋違いの漫画的な要素を無視しなければならない」のである。

*5:大雑把に過ぎるとおしかりを受けるだろう点であるが、ここで私は対戦型ないし競技ではないゲーム―-たとえば課題をクリアすることをプレイと呼ぶある種のゲーム、パチンコや射的のような―-を扱わない。話がややこしくなるからである。

*6:ここで分割不可能とは、分割すればその本性が変化してしまうもの、という意味である。