「人間らしい生」について

argfm2009-12-26

 全く別のことを書こうとしていたのだが、あまりにびっくりしたので、急遽、こちらについて書くことにした。ちなみに、以下で問題にする記事の存在を、私はkaichoo(黒瀬陽平)さんのツイッターで知った。*1ちょっと、言葉を失って唖然としているというのが、正直なところだ。私はツイッターに参加していないからよく分からないが、ちょっと見たところでは、kaichooさんによる記事の紹介に反応している人はいない、また、リンク先の記事について、kaichooさん自身も今のところとくにコメントを述べてはいない、ということは、リンク先の記事に対して、とくに誰もオドロキはしなかったということなのか。
 私が驚いたのは、以下の記事についてである。まずは全文引用する。
 以下福嶋亮大さんのブログ、『仮想算術の世界』より*2


阿久根市長発言と生権力
2009-12-23 13:26:25 | Weblog
ブログほったらかしですみません。新著(『神話が考える』)のほうは徐々にゲラになっておりますので、どうぞ期待してお待ちください。そういえば、最近ほうぼうから「何でツイッターやらないんだ?」と詰問されているのですが(笑)、ツイッターは確かにシステムとしては大変興味深いとはいえ、ちょっと自分でやるのは二の足を踏んでしまう…。いや、ツイッターは本当はかなり破壊的だと思いますよ(笑)。まぁそうはいいつつも、どうせ来年には始めてるんでしょうが。選択の余地はなさそうです。

最近は抽象的な本ばかり読んでいて、ニュースもたいして見ていなかったのですが、阿久根市長の竹原信一の発言は非常に重要です。「高度医療が障害者を生き残らせている」という発言が実はきわめて正確であることは、フーコーを読んだ人ならわかるはずです。フーコーは、およそ二つのタイプの権力を分けています。一つは生殺与奪の権限を握った古典的な権力、つまり「死なせる権力」です。もう一つは、この世界に出生した生命を最大化する権力、つまり「生きさせる権力=生権力」です。高度医療にせよ、社会福祉にせよ、近代の制度的デザインというのは前者から後者への移行として捉えられる。要するに、人間の生にダメージが加えられたときにそれを修復するとか、予測不可能なアクシデントが発生したときにそれをカバーする保障制度をつくるとか、そういうメカニズムが非常に発達する、それが生権力の時代です。

フーコーが挙げている例で興味深いのは、スペインの独裁者フランコです(『社会は防衛しなければならない』)。フランコは、生殺与奪の権限を握った古典的権力者としてずっと振舞ってきた。ところが、彼は七〇歳を超えてから、十年近くも長い闘病生活を送る。それはまさに「高度医療によって生き残らされた生」であって、もはや彼自身の尊厳とは関係ないところまで延長されるわけです。ここに、死なせる権力の発動者が、生きさせる権力に巻き取られていくダイナミズムを見てとることができます。フーコーは晩年のフランコが「結局個人を死を越えてもなお生きながらえさせる、生命についての権力の新しい領域に入った」と述べていますが、これは阿久根市長の発言と限りなく近い。

その点では、阿久根市長が「権力者だ」と言われるのは、二つの権力を混同しているところに由来する。一方から見れば、阿久根市長は、血も涙もない古典的権力者に見える。しかし、他方から見れば、彼はむしろ高度医療そのものが生権力の源泉になっており、「生命を最大化する」ことのもたらす弊害が無視できなくなっていることに着眼している。このズレは深刻です。

裏返せば、生権力の時代には「死」がタブーになり、また今回のようにスキャンダルになる。だから、積極的に「死」を選択することに対しては、それこそ強い圧力(権力)がかかります。その点では、安楽死をテーマにしたドゥニ・アルカンの『みなさん、さようなら』(原題は『蛮族の侵入』)や、納棺師を主人公にした滝田洋二郎の『おくりびと』みたいに、死(あるいは死体)にじかに触れるような映画が出てきたのは、単純にいいことでしょう。そもそも、高齢者がどんどん増える社会で、安楽死尊厳死の制度がちゃんと整備されていないというのは非常にリスキーなことです。かく言う僕も、肉親のこと、そして自分自身のことを考えると、「生きさせる」権力の肥大化は他人事ではないと感じる。まぁ『みなさん、さようなら』や『おくりびと』っていうのもちょっとやり方は古典的で、見てもらえばわかりますが、要は古い「死の儀礼化」をもう一回やり直しているわけです(それはそれで感動的なので構わないのですが)。しかし、本当に必要なのは、儀礼ではなく、もっと手続き的に死を選べるように、制度を考えるということではないか。

ついでにいうと、これは(『思想地図』的に言えば)「切断が機能しない」社会の特徴でもあります。『思想地図』三号では、物理的世界では切断が機能するが、データの世界では切断が機能しない(だから、延々とコミュニケーションが続く)と言われていた。ところが、阿久根市長発言が示すのは、むしろ物理的世界でも切断(つまり死なせること)が機能しない場面があって、それが問題になっているということです。

いずれにせよ、生権力への移行ということを押さえておかないと、阿久根市長を権力者だと言って批判している側こそが、最悪の生権力に操られているということになりかねない。別に大手新聞の記者も、高度医療が抱えている無数の問題を知らないはずはないと思いますが、要は空気を読んでいるだけですね。今の報道姿勢は最悪です。

むかしユリウス・ハッケタール(患者を安楽死させたことでスキャンダルになったドイツの医者)の『最後まで人間らしく』(未来社)という本を読んで感銘を受けたことがあるのですが、やっぱりヨーロッパだと「人間的なもの」をめぐる再帰的なコミュニケーションが発達してるから「生権力の時代において、では人間的なものをどこに新たに担保するか?」という問いがちゃんと成り立つ。つまり、生権力の暴走に対して「いや、そうは言っても人間らしい生ってあるでしょ?」というコミュニケーションができる。しかし、日本だと、そんなコミュニケーションは到底できそうにないということが今回白日のもとに曝されたわけで、とりあえず一市民として不安でなりません。 <引用終わり>



 私は不勉強のため福嶋亮大さんという知識人の論説をほとんど知らないが、以前四谷アートストゥディウム主催の『批評の現在』にゲスト講師として呼ばれていたから、彼は有望な批評家であるのだろう。私が「びっくりした」のは、そのためだ。(併せて、誰もその発言に反応していないこと理由の一つだ。尤も、竹原発言についてはさんざん話題になったようだけれども。)
 さて、ここで言及されている阿久根市竹原信一の発言とはどのようなものか、以下に引用する。(竹原信一氏のブログ*3は12月25日現在「修正中」であり、当時発表されたままのかたちで全文を読むことはできない。)


■2009/11/08 (日) 医師不足の原因は医師会
 医師不足が全国的な問題になっている。特に勤務医の不足は深刻だ。
医師が金儲けに走っている為だが、この体質を後押ししてきたのが医師会だった。
以下 池田信夫blogから引用
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/f65bacae249f66488dc8bfc3e9fbe384
----------------------かつて「医師過剰」の是正を繰り返し求めたのは日本医師会出身の議員だった。たとえば1993年に参議院文教委員会で、宮崎秀樹議員(当時)は
次は、大学の医学部、医科大学の学生定員の問題でございます。これに関しましてはいろいろ定員削減という方向で文部省と厚生省との話し合いができておりまして、一〇%削減、こういう目標を立ててやっているのですが、実際にはそこまでいっていない。[・・・]例えば昭和六十三年には十万対百六十四人だった。これが平成三十七年には三百人になるんです。三百人というのはいかにも医師の数が多過ぎる。
と医学部の定員削減を求めている。宮崎氏は日本医師会の副会長を歴任した。−−−−−−−−−−引用おわり
 勤務医師不足を解消する為に勤務医の給料を現在の1500万円程度から開業医(2500万円程度)に近づけるべきなどとの議論が出てきている。
しかしこんな事では問題は解決しない。医者業界の金持ちが増えるだけのこと。
医者を大量生産してしまえば問題は解決する。全ての医者に最高度の技術を求める必要はない。できてもいない。例えば昔、出産は産婆の仕事。高度医療のおかげで以前は自然に淘汰された機能障害を持ったのを生き残らせている。結果 擁護施設に行く子供が増えてしまった。
「生まれる事は喜びで、死は忌むべき事」というのは間違いだ。個人的な欲でデタラメをするのはもっての外だが、センチメンタリズムで社会を作る責任を果たすことはできない。
社会は志を掲げ、意志を持って悲しみを引き受けなければならない。未来を作るために。
<市長記述は以上>
(九州企業特報より *4



 いわゆるフランス現代思想に通じている人なら、ここでもっと面白い議論を展開することもできるのだろうが、私にその余裕はない。本来ならフーコーを読み直してから書きたいのだが、専門家に任せることにして、急いで、簡単に福嶋に対する異論だけを述べるに留める。私がどうしても納得できないのは、阿久根市竹原信一が述べた「高度医療が障害者を生き残らせている」との発言に対し、福嶋がこれを擁護していることにある。まず先に竹原の発言について述べておくが、これがどうにもフォローしがたい失言であることに間違いはない。というのも、医師連中があくどく金儲けをしているという批判と、かつては「自然に淘汰された機能障害者」が今日では生きることができるということ(医療技術の発展、福祉の充実)とが、論理的必然として結びつくことはないからである。後者は前者の必然的帰結ではないし、前者は後者の前提でもない。この論理の飛躍に市長の主観があり、ゆえに、これは失言なのである。とは言え、いずれにせよ竹原は政治家である以上、ご本人なんとか前言を撤回し、フォローしようと努めているようだから、この際、追究せずにとりあえず無視することができる。(政治家なんてものは失言してくれた方が管理しやすいものである。)だが、福嶋の発言の持つ意味は、竹原のそれとは違う。彼の発言は、竹原本人でさえなんとかごまかそうとしている失言に対する擁護であり、あまつさえ思想的価値評価であり、竹原発言を問題視する「日本」とやらの現状を嘆き、「日本」とやらの改革を促す「一市民」としてのアジテーションですらあるからだ。(そして福嶋は、この竹原発言を、フーコーのものでもあると、書いている。なぜ、この記事を批評家や知識人と言われる人たちが問題にしないのか?これからなのか?)
 福嶋の書いた記事によるなら、「障害者」は「生権力」によって生きながらえさせられた存在である、ということになる。*5そこには、〈障害者=「弊害」〉という図式が潜んでいる。福嶋の記事に従うなら、「障害者」の生は「人間らしい生」ではないということになるだろう。「高度医療そのものが生権力の源泉になっており、「生命を最大化する」ことのもたらす弊害が無視できなくなっている」と、福嶋は書いている。だが、「弊害」とは、いったい、何にとっての、誰にとっての「弊害」なのか?国家や市の予算にとってなのか、「人間らしい生」を送っていると称する「人間」にとってなのか、医療関係のモラルにとってなのか?竹原発言に寄り添うように書かれた福嶋の記事において、この点はまったく曖昧なままである。主権はどこに、誰にあるのか?誰が誰に「尊厳死」ないし「安楽死」を与えるのか?(言うまでもなく、ナチスは障害者を「恩寵の死」----「人間らしい生」----の大義の下、虐殺した。救済と称する生の選別(改造)という暴力こそ、フランツ・ファノン植民地主義の暴力として告発した「権力」である。)福嶋の言葉で言うところの「生きさせる権力」が批判されるべきものとなるとしたら、それは、「生きさせる権力」なるものが、まさにこうした「人間らしい生」を送らせる(それ以外の生を排除する)政治的暴力であるからではないのか。
 もう一点、どうしても言っておきたいことがある。ここで竹原・福嶋両氏によって十把一絡げにされた「障害者」とは何なのか。そんなものがあるのか。(私は見たことも会ったこともない。)いったい、どんな「機能障害」が「障害者」全体を代理・代表し得るというのか?両氏には、まず、「障害者」あるいは○○症と呼ばれる存在の・人々の多様性、周囲の人々の対応の多様性、障害と非障害の境界の曖昧さを知ることから、始めて欲しい。

*1: http://twitter.com/kaichoo

*2: http://blog.goo.ne.jp/f-ryota/e/8d60a30ffc0de5857f9fe758f3615b3b

*3: http://www5.diary.ne.jp/user/521727/

*4:http://www.data-max.co.jp/2009/12/10_093824.html

*5:このことを竹原、福嶋が主張するためには、本来、「生権力」----ここでは医療技術----によって生きながらえた人々は須く「障害者」であるという前提が必要である。彼らの主張が悪質なのは、この点を彼らが一顧だにしていない点にある。