SYNECDOCHE, NEW YORK

argfm2009-12-18

 チャーリー・カウフマン監督の映画『SYNECDOCHE, NEW YORK *1(邦題「脳内ニューヨーク」2009日本公開)』)(2008)について。超ネタバレですので、ご注意ください。
 この映画には二つの異なる時間軸がある。一方は、演出家である主人公ケイデン(フィリップ・シーモア・ホフマン)が直面する実生活という‘現実の’時間であり、もう一方は、ケイデンが実生活を忠実に再現しようとして作り上げる舞台(演劇)という‘虚構の’時間である。これら二つの時間はオリジナルとコピーの関係にあり、一方から他方への働きかけは不可逆的である。つまり、ケイデンが離婚すれば舞台上のケイデンも離婚する。あるいは、実生活のケイデンが離婚したからこそ、舞台上のケイデンも離婚するのである。その逆はない。このように、ケイデンの演出によって作り上げられようとする舞台には、舞台を作り上げるための、独立し完結したシナリオがない。現実そのもの、彼の実生活そのものが未完のシナリオとして与えられている。だが、なぜそんなことを試みねばならないのか。
 現実をシナリオとして受け取る。このことは、解釈し、話を整理し、何かを理解するよう努めるべきものとして、現実を受け止めることを意味する。答え(=エンディング)を見つけなければならない。なぜならば、「現実」は理不尽であり、理解不能であり、不当であるからだ。演出家であるケイデンにとって、それは神からの呼びかけにも喩えられる。理解せよ、認識せよというメッセージ、それがケイデンの直面している「現実」である。シナリオを読解し、真のエンディングを備えた真の芝居を作らねばならない。そのために、シナリオであり芝居でもあるような二重体の芝居を作らねばならない。ゆえに、実物大の虚構が要請される。
 いかにケイデンの直面する「現実」が理不尽なものであるのか、このことを、映画は皮肉とギャグで明快に示している。現代美術、CM、精神分析、理想の家族像、医療(健康)、住宅事情、戦争などなどが皮肉られる。(そしておそらくは芝居を作る----映画も含まれる----ということそれ自体もまた。)映画の中でケイデンの実生活は常に、幻想的で‘シュール’で、理解不能な出来事として、また、あたかも虚構の演劇であるかのごとく、描かれる。虚構のニューヨークを実物そっくりに再現するというケイデンの試み自体もまた、皮肉でありギャグであると言えるだろう。ケイデンが生きる時間的順序は曖昧になり、彼からは月日の感覚すら失われてゆく。次々に展開される奇妙なシーンを前に、観客は、ケイデン同様、現実と虚構の区別が曖昧なままに、いったいこれは何なのだと訝しがりつつ、映画を見続けることになる。(この作品にカフカとよく似たところがあるとすれば、こうした「悪夢」の描写においてである。)
 だがいったい、こんな映画はどこに向かうのか、どうやって終わるのか、この問いが、観客と映画の間で賭けられた賭け金であろう。この賭は、映画自らによって為されたものである。というのも、賭けられた問いは映画において立てられたのであるから。(我々----映画を見ている者----は、映画は終わらねばならないものであるという常識によって、このように問うのではない。)ケイデンが作り上げつつある芝居がなかなか上演されないのは、この問いに答えが見つからないからである。ひとたび見出された答えも、すぐに裏切られてしまう。出来事は次々に起こり、したがって芝居もどんどん長くなってゆく。
 この映画における二つの時間軸、そして問いを規定しているのは、シナリオと芝居との差異であり、その不一致である。ケイデンは、芝居においてこの不一致が解消されることを望んでいるのであり、芝居が作られる理由はそこにある。だが、そんなことは可能なのか、それが不可能だということを、この映画が次々に示してゆく時、この問いに対する答えはどのようにして見出されるのか。(様々な答え、そして答えへの批判が、映画への批判・パロディになっている。)
 映画のラストにおいて、ケイデンは映画の中で初めて、舞台において演技者になる。つまり、私を正しく認識せよと命ずる者(神=現実)と真理に基づいて完成された世界(芝居)との間に立つ媒介者・調停者という立場を去ることになる。こうして他者の声を機械的に(指示通りに)反復する側に回ることで、彼は初めて自分以外の者の声(命令、願い)を、自分のものとして、聞くことが可能になる。映画のラスト部分は、映画自体によって投げられた問いに対する答えである。発せられることの無かった声、だが同時にケイデンが最も聞きたかった者のものでもある声、すなわちオリーブ(サディ・ゴールドシュタイン、ロビン・ワイガート)の声を、当の者ではない他者の声によって、他者の声として聞き、そしてケイデン自らが演じること。それこそが、この映画が自ら立てた問いに対する回答である。「現実」にはあり得なかった会話を演じること、あそこで起こったことはここで起こったことでもあると知ること、あたかもそれこそが、世界との和解であり映画の使命(責任)であると、この作品は告げているかのようだ。*2この作品は、こうして終わる[ことができる]。作品にのみ許された、時間(尺)の終わりと物語の終わりの幸福な一致によって。(実物大の虚構が完成することによって。)
 


*1: http://www.sonyclassics.com/synecdocheny/  http://no-ny.asmik-ace.co.jp/index.html

*2:マルコヴィッチの穴』、『エターナル・サンシャイン』から、コンテクストを変え論点を変えつつも、問い続けられているテーマである。