『芸術作品の根源』 世界とは何か 最終回 9/13改(青字部分)

(つづき)
 問題は「世界」とは何か、あるいは、「世界」を「開示する」とはどういうことか、という点にある。一見、ハイデガーの論説を脱構築することは[論説の上では]簡単であるようにも見える。たとえば、「世界」を「開示」することを本性上の差異とするような事物(技術)こそが芸術作品であると考えるだけで、コトは解決するようにも見える。ハイデガーがいったんは認め、出発点として定めたはずの芸術作品の二重構造を、彼自身は却けた。ミメーシス(模写、模倣)を却け、事物(技術)としての作品を却けた。ゆえに彼の論説には矛盾が生じている。であるならば、たとえば、ある〈固有言語=事物(技術)〉を他の〈固有言語=事物(技術)〉によって模倣することであるとか、そうした図式によって芸術という仕事を定義し得るように思われる。「存在を問う」ことを目的とするこの文脈においては、模倣することは「翻訳すること」ではない。つまり、「世界」を「開示」するとは、或る固有の事物(技術)をそれとして成り立たしめている「命運」および「もたらし」の、現前性を超えてなお「命運」であり「もたらし」であるようなものを、他の固有の事物(技術)として実現(現前)させることである、と。肝心なのは、こうしたアレゴリーとしての事物(技術)において、そこで「開示」されたものが実在するのかそれとも「隠れた真実」であるのかを区別することには意味がない、という点にある。根源的な差異は、隠れていた(与えられていなかった)ということによって与えられるのではなく、他でもあり得たこと(すでに与えられていること-引き受けていること)の開示に起因する。
 というわけで、アレゴリーとしての芸術作品について、一つの答えを得た。思いもよらず、答えが出てしまった。それがすべてであるとは言わないが、しかし、「存在を問う」とは、そういうことであるはずだ。それが真理を開示するかどうか、面白い作品を生むかどうかは、もちろん、保証の限りではないけれども。だが、かくして、芸術作品は事物(技術)を否定項として持つことなく(ある意味で「用途」は消去されてはいないのだから)、事物(技術)という「存在」を問う限りにおいて、そのときにのみ、問われている事物(技術)そのものから区別されるとは、言えるだろう。そのとき消えるのは、問うものと問われるものの能動/受動という役割分担、その境界線である。(終わり)