『芸術作品の根源』 世界とは何か 5

argfm2009-09-09

(つづき)
 整理しておこう。ハイデガーによれば芸術と技術との差異は、その技術としての本性が開示されるか否かにあった。しかし、本性の開示が事物(技術)それ自体の差異ではなく、事物(技術)を見る主体の態度の違い(「存在を問う」か否かという違い)に過ぎない以上、そこに境界を認めることはできない。では、芸術作品であろうと事物(技術)であろうと、そこに「世界」を、「精神」を、看取することが可能であるのならば、芸術と技術との間に境界線は無いと言えるのか、それが次に問われるべきことであった。
 既に見てきたように、ハイデガー自身の論説は、アレゴリーとしての芸術作品を提示することに失敗している。なるほど、彼は芸術作品自体が、自然の理、概念、用途、制作者それぞれが、互いに互いを規定し合う「命運」によってもたらされるものであると、論述してはいる。だが、彼が彼自身によって芸術作品と見なしたものに対し記述を行う際には、彼は芸術作品自体の「命運」に無関心(あるいは無知)である。たとえば、既に指摘したゴッホの絵画についての記述がそうであり、あるいはまた、「ギリシア神殿」*1についての、その構造なり風土*2なり実際の使われ方なり経済的社会的歴史的条件なりへの言及を一切欠いた記述が、そうである。ゆえに、彼の作品記述からは作品自体の「もたらされたもの」を感じることができない。(彼の記述それ自体もまた。)こうした矛盾は、彼の思索様式に一貫した、記述するものと記述されるものとの間の手の込んだ同一化に起因する。すなわち、自己に内在する真の自己としての他者によってこそ「[精神的]世界」が「開示」されるのだという彼の「存在神論」における誤謬に起因する。彼の論理においては、真の(それが真であるかどうかを検証する契機は示されない)自己としての他者を、「開示」する働きを為す媒介者という存在が、欠落している。したがって、芸術作品それ自体の「命運」および「もたらし」に関する問いが欠落するのは、彼の思索様式に従う限り必然であるのかも知れない。
 ゆえに、ハイデガーによって提案されたアレゴリーとしての芸術作品は、未だ正当に分析されていないと言える。芸術作品がまた事物(技術)であることを認めた上で、アレゴリーとしての芸術作品を改めて考察する必要がある。では、ハイデガーとは異なる仕方で分析されるべき芸術作品のアレゴリカルな構造とはどのようなものか? 芸術作品のアレゴリカルな構造は、事物(技術)との境界線たり得るのか?
 芸術作品とはアレゴリーであると言われていた点を再度検討しよう。ハイデガーによれば、事物(技術)はそれ自体の内に安らっている、つまり、単体で完結している、しかし、芸術作品はアレゴリーである、とされる。この差異を、「用途」の有無としてではなく、構造上の差異として考えてみることにしよう。ハイデガーによれば「存在」とは歴史的な形成過程を経た事物であり、「コーラ」であった。すなわち、潜在的に多様な事物(や世界)を含むものであった。この点において、事物(技術)と芸術作品との間に区別はない。だが、ここにおいて、それら潜在する諸事物(世界)の関係がいかなるものであり得るのかという問いは、未だ開かれたままである。というのも、ハイデガーにおいては、それが語源学的に見出された絶対的な差異としての起源であれ、すべてを統一する超越的な「形態」としての本性の差異であれ*3、いずれにせよ、「コーラ」に潜在する諸事物(世界)がそれをそれたらしめる「根源」へと収斂するというただ一つの図式しか示されていないからである。こうした図式は、事物を単一の「用途」に還元するならば、ある程度当てはまるだろう。それは事物が単体として完結していることの説明として通用するだろう。ただし、事物(技術)の「命運」および「もたらし」を看取するという目的にとっては必ずしも充分であるとは思われないけれども。(たとえば、歴史的形成過程という伝播の中で、消化しきれなかった残余としての諸要素などは、この視線によっては観察できない。)(つづく)


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*1:ハイデガーがどの神殿を指して言及しているのかは、ハイデガー研究者達の間ですら確定されていない。

*2:彼が言及しているのは‘風景’である。

*3:「形態」の定義については、ハイデガーの論説においては発明および自らして自らと成るという契機が欠かせないという点を、考慮されたい。