『芸術作品の根源』 世界とは何か 4

argfm2009-09-08

(つづき) 『技術論』で示される存在についての問いは、或るものを他から峻別するために起源としての他者を反復することを必要としない。事物(技術)の絶対的な出現を画する根源は、もはや事物(技術)自身しかないのであり、事物(技術)は事物(技術)である限りにおいて、人間や個の自由意志を超越した他なるものとして与えられるのだとされる。つまり、事物(技術)はそれ自身であることを目指して(ハイデガーはこれを「露発」と言う)、「命運」を通って「もたらされる」ということである。
 ハイデガーの主張をどう評価すべきだろうか。とりあえず、彼の論説に同意するには、いくつかの難点がある。一つは、彼が、技術の本性を開示し得るのは芸術の領域においてのみである、と書いている点である。一体、以上概説してきたハイデガーの論理が、どのようにして技術と芸術を峻別し得るのか。ハイデガーによる技術と芸術との区別は、[人間の]用途に埋没し「管理」されているものとしての技術と、そうではない先述したような技術の本性を開示するものとしての芸術というものであるが、しかし、これは対象を手段として見るか目的として見るかという違いに起因する区別であって、つまりは観察する主体の態度の違いから生じる区別であるに過ぎない。我々は既に、『芸術作品の根源』において、いかにしてゴッホの絵画が事物(技術)の本性を見て取るために役立てられるのかを見た。ここで改めて彼による技術と芸術の境界線を問うならば、文字通り、それは用途(文脈)から対象を切断する保護の境界線の有無、すなわち「」の有無にしかないことが分かる。既に指摘したように、彼のゴッホ評は一見芸術論のように見えて、その実、芸術作品そのものに触れてはいない。道具の本性を見て取るために、ゴッホの絵画は「」という機能(「用途」)に還元され、その「命運」も、それ自身において「もたらされるもの」をも「開示」することはなかった。ハイデガー言うところの、技術の本性を開示し得るのは芸術の領域においてのみであるとは、そういう意味である。
 仮に彼が芸術作品を自らの論理に従い正当に、「用途」に還元することなくその「命運」を「もたらされるもの」に従って鑑賞し記述したとしても、そのときでさえ、事物(技術)が事物(技術)の本性へと至るその「命運」を看取することが問題である限り、芸術と技術との区別を言うことはできないだろう。技術と芸術の境界線と、「世界」の「開示」との二者択一の中で、どちらを選ぶべきか、選択すべき答えは明らかではないだろうか。では、芸術なるものはなく、芸術は技術に解消されると考えるべきなのか。この問いに答えを出すには、もう一つの難点に触れておく必要がある。
 もう一つの難点とは、一貫した彼の根源礼賛である。『技術論』においては、「根源」は、イマココに現前するこの事物そのもの(の発明、誕生)という奇跡(「もたらし」)であることを、我々は既に確認した。この根源礼賛は、根源との同一化(「聴き従う」とハイデガーは言う)を要求し、イマココに現前するものに対して、それ以外にはあり得なかったというやり方で、「存在の問い」を開始するよう強いる。ハイデガーは次のように書いている。「人間の成存[本性]がこの見入り*1の瞬きの瞬間の中で、その瞬きに見止められたものとして、人間の我執に別れを告げ、かくて己を去って、その瞬きの中に自己を棄て-投げる(ent-werfen)とき、その時初めて人間は自己の成存のなかでその瞬きの呼び求めに応答するのである。かく応答しつつ人間は、見護られた世界の本土の中で、死するものとして、神的なるものにまみえる(entgegenblicken)にふさわしきものとなりつつ――自らとなる。」*2
 ハイデガーは、「自己」が「自己」を「棄て-投げ」て、「呼び求めに応答する」ものとなることに、何の不安も感じていなければこれを問うこともない。(「棄て-投げ」られるべき「自己」と「呼び求めに応答する」「自ら」との関係は、技術と技術の本性(芸術)との関係に等しい。)ここで、「自己」ではない根源(「神的なるもの」)こそを「自ら」と重ね合わせるのは、事物(「技術」)の「命運」でも「もたらし」でもない。それだけでは、この重ね合わせ(根源の反復)は遂行され得ないのであり、ハイデガーの論理からは、何かが言い落とされている。『芸術作品の根源』で彼が実践して見せたように、本性を「看守」せんとする「存在の問い」から抜け落ちているのは、「開示」するものの「命運」であり「もたらし」である。(つづく)


関連項目 →http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080407/p1

*1:事物(技術)の本性に気づくこと、それをハイデガーは「見入る」と形容する。

*2:『技術論』