『芸術作品の根源』 世界とは何か 3

argfm2009-09-06

(つづき) 絶対的な差異の創出としての「根源」を反復すること、この試みに対し、それが「来るべき言語」であるか否かは、結局のところ、過去ばかりでなく未来にも開かれた様々なコンテクストが判断するはずである。*1この可能性なくして「現存在」も、「世界」もないだろう。たとえば我々は、語源学的な戯れなしに、語の隠された歴史的資源などなしに、「地代」ないし「家賃」という「存在を問う」ことができる。(問うためには「地代」や「家賃」の無い世界を想像してみるだけでよい。)そうして「開示」されるだろう「地代」(「家賃」)の本性上の差異は、必ずしも「根源」ゆえに、あるいは「来るべき言語」として、反復されるべきものとは限らないであろう。*2以上で、ハイデガー言うところの「存在を問う」とはどういうことかについての、概説および検討を終える。
 改めて整理しておこう。ハイデガーの「世界」論は、二つの論理によって構成されていた。一つは、ある「出来事」を経験することによって、以前と以後がまったく異なってしまうような「世界」の質的差異を論証せんとする論理である。他方は、こうして得られた「世界」の価値評価である。本稿がとりあえずの目標としてきたのは、これら二つの密接に結びついた論理を分離することにあった。なぜならば、ハイデガーによる「世界」評価が、つねに程度が劣るとされる(精神がないとされる)「世界」を否定項として持つものであるがゆえに。*3だが、「存在」が複数の世界によって構成されているのでない限り「存在を問う」ことはできず、したがって、「世界」の複数性なしに「世界」なるものはあり得ないのだとすれば、ギリシア語には耳を傾け、動物や石には耳を傾けないという彼の選択(「決断」)が、その論説の中で正当化されることは決してない。というのも、そもそも「存在」が「コーラ」であるのなら、定義上、そうした選択(「決断」)の正当化は不可能だからである。言い換えれば、「出来事」を介して峻別される「世界」の差異(質的差異)が、私の文化・私が帰属する固有言語的なイマココに対してのみ「精神」の「現存在」への可能性を認めるような階層化(程度的差異)と同義であるということの論証に、[当然ながら]彼は成功していない。
 冒頭で触れたように、彼の「世界」論は、精神的世界とそうでない世界(退屈、と彼は形容する。)との峻別にあった。もはや予め「現存在」への可能性を保護および排除するような、世界に対する差別化は問題とならないとしても、ハイデガーに対するこれまでの異議申し立ての中で、「存在を問う」ことは「世界」以後と「世界」以前とを峻別するような絶対的な差異を生み出すための条件であるというハイデガーの仮設までもが、却けられたわけではない。では再び「世界」とは何かという問いに戻ろう。
 彼自身の「思索様式」はほとんど変わらないとは言え、『芸術作品の根源』を理解するためには避けて通ることのできない一冊『技術論』*4は、「存在」を「言葉」に限らず技術としても考察している点で、「存在を問う」ことの再検討という当座の目論見にとって適している。たとえ『技術論』における彼の論説自体が「言葉」に拘泥し、「言葉」に終始するものであるとしても、ここではもはやハイデガーによる無批判にバイアスのかかった語源学に関わる必要はない。『技術論』において考察されるのは(彼は「救う」と表現するが)、技術の本性である。技術という存在を問うこと、そして技術の本性を明るみに出すこと、それが『技術論』である。(後に触れるが、彼にとって技術の本性は芸術という領域においてしか可能ではない。したがって『技術論』は芸術論である。)では、いかにして技術という存在を問うことは可能になるのか。
 技術[の本性]を問うことが可能になるのは、技術が人間自身によっては自力で発明することも制作することもできないものだからであり、技術が個を超越した力能だからである。技術は自然の理、概念、用途、制作者それぞれが、互いに互いを規定し合う(「責めを負う」とハイデガーは言う)ことによって、人間や個人を超えた技術として成り立っている。こうした成り立ちそのものを彼は「命運」と呼ぶ。「命運」は人間の自由意志に、人間の目的や用途(≒使用価値)に、還元され得ない。そして「命運」こそが絶対的な差異を画す他者の声として、用途に還元され得ない技術の本性を問わせるのである。この呼びかけに耳を傾けるとき、精神が目覚める。目的に還元され得ない技術の本性こそが、「世界」を「開示」する。だが、「命運」が己を他から峻別する絶対的な差異であることは、どのようにして「開示」されるのか。ひょっとするとこのあたりが、ハイデガーが晩年パウル・クレー(1879〜1940)の絵画に興味を抱いていた一因なのかも知れないが、余談として触れるにとどめよう。話を先に進める。「命運」が己を他から峻別する絶対的な差異であり得るのは、それが「もたらされたもの」である限りにおいて、である。「もたらされたもの」なくしては「命運」は堕落し、用途に解消されてしまうだろう。かなり観念的で分かりづらいが、要するに、ハイデガーは、発明(発明がもたらされたものであることは疑い得ない)である限りでの「命運」が、或る技術を他から峻別する絶対的な差異であると言っているのである。簡単に言って、発明品の使用価値ではなく、発明品の生産過程およびその奇跡(もたらし)を看取することにおいてこそ、「世界」は「開示」される、というのである。(ここでハイデガーは技術の本性を問わせるその他者の声について、ほとんど「超感覚的感覚(フェティッシュ)」と同様の効果を指摘しているようにも見える。だがしかし、『技術論』においては、労働の具体的形態が捨象されることはない。)(つづく)

*1:この「言葉」の‘助産師’が「ギリシア人」ではなく、ギリシア語を「開示」するハイデガーであることが銘記された上で。

*2:見出された差異は、単なる反復可能性としての「存在」でしかあり得ず、神学的な目的論的価値を担ってはいない。

*3:断るまでもなく、動物と人間に境界がないという話をしているのではない。生物学的、言語学的、情動的等々の様々な境界がある。犬が人間のファッションを人間と同じように理解することはない。だが、だからと言って、彼らが「精神」を持たないわけではないし、犬と人間によって構成される「世界」がないわけではない。犬もまた「現存在」たり得ることは、多くの人が知るところである。私はこうした境界の問題を、具体的には障害者と私の間に生じる「世界」の問題として考える。

*4:『技術論』小島威彦 アルムブルスター共訳 理想社 1965