『芸術作品の根源』 世界とは何か 2

(つづき) 「存在を問う」ことが「出来事」の条件であった。それは未だ条件に過ぎないとしても、だが「存在を問う」とはどういうことか、「存在を問う」ことはどのようにして可能なのだろうか?「存在」、「歴史」、「闘争」、「死」の連携を見てゆこう。「存在を問う」ことは、ある事物(「存在者」)について「ある」とか「無い」とか言うことを可能にするような内と外の区別によって先立たれている*1。このような地から図を浮き立たせるところの輪郭に「支配」された「存続性」、事物の内と外を規定する自己維持の働きを、ハイデガーは「存在」と呼び、存在こそ、ものを言うための最も根本的な審級であると言う。あらゆる特殊なものから自己を引き離し、ずれ続け、そのことによって他のものを許容し、他のために空けられ存続し続ける「場」、すなわち「コーラ」、それが「存在」である。「存在」が「コーラ」であるからこそ、たとえば「存在」という現前する語の内にも「基礎形からの偏差や変化」が内包されるのであり、ゆえに「存在」を「問うこと」が可能になる。したがって「ものを言う」ことはつねに「問うこと」に脅かされているということになる。「存在」と「歴史」はかくして必然的に結びつく。「存在」は、つねに複数の世界によって規定され、問いは常に潜在している、ということである。ここがハイデガーの哲学の中で微妙な箇所であるが、注意すべきは聴取可能性において、他なる者の声を聞き取ることの可能性が潜むとされている点である。つまり、彼の論説は、単に仲間内で話が通じるといった事態、あるいはそういった気の置けない世界を、リアルであると主張しているわけではない。この点は、すぐ後に再び論じる。
 では「存在」と「歴史」は、あるいは歴史的なる存在は、いかにして「闘争」および「死」と結びつくのか?ハイデガーによれば、人間が己の死を了解するとは、他者の死を代理し得ないものとして捉える、ということである(「各私性」)。誰かに代わって死ぬことはできても、誰かの死を代わることはできない。(たとえば、「人は死ぬ」という文は単なる生命の終わりを示しているに過ぎないが、「誰某が死ぬ」という文は「現存在」の終わりを示している。)このこと(「根源的有限性」)を自覚しているがゆえに、「人間」(≒「現存在」)の死は単なる生命の終わりとは区別されねばならない。自分が[いつか]死ぬと分かっていて死ぬのが人間であり、自分が[いつか]死ぬと分からずに死んでいくのが動物(単なる生命)である。動物には「死」という概念が無く、したがって「故人」という概念もない。「故人」とは、哀悼と追憶によって我々の共同存在であり、我々の「世界」を後に遺し、精神の「言葉」を(思考すべきものとして名指された何かを)遺してゆくような存在者である。「現存在」はこの意味において、「死なない」のだと、おおよそ、ハイデガーはそうした意味のことを書いている。*2志半ばにして死ぬのは人間(≒「現存在」)だけであり、志を遺してゆけるのも人間(≒「現存在」)だけである。かくして、考えるべく与えられた・遺されたナニモノカ(語・言葉)を、証言を、問うことができるのも、人間(≒「現存在」)だけである。行間を読むことができるのは人間(≒「現存在」)だけである。そこに闘争の歴史が、精神的世界が生じる。「現存在」が世界(歴史)形成的であり世界(歴史)的存在であるとは、そういう意味である。「存在」、「歴史」、「死」はこのようにして密接に結びついている。
 では最後に、「闘争」とは何だろうか?聴取可能性において他なる者の声を聞き取ること、である。ここまで見てきたようなハイデガーの「存在論*3は、「闘争」という点においては、しごく簡単に図式化され得る。自らのハイデガー評の中で、ドゥルーズは次のように書いている。「ハイデガーはかなり厳格にドイツ語とギリシア語(あるいは初期ドイツ語)しか使わない。彼は現代ドイツ語の中で古典ギリシア語ないし古ドイツ語を機能させてみせるが、それは新しいドイツ語を獲得するためである・・・・・・。古い言語が現在の言語に作用して*4、現在の言語はそうした条件のもとでいまだに来るべきものである言語を生み出す。」*5たとえば、ハイデガーによれば、「存在」という語は「生きる」、「発現する」、「滞在する(住む)」というギリシア語をその歴史的な形成過程の内に担い運んでおり、これらの「語源学的」に見出された意味が、「存在(ある)」という語の様々な用法を貫いて一つの限界を設定している、とされる。ドゥルーズが言うように、「・・一方の言語が他方の言語のなかで作用し、または戯れて、来るべき言語を生み出す・・」*6というわけである。だがなぜ「隠された歴史」の声を聞き取ろうとせねばならないのか?ここでハイデガーが聞き取ろうとしているのは、哲学が開始されたその最初の声、である。それこそが、このアナグラムにも似た言語操作それ自体に[アナグラムとは異なり]価値を与える。つまり、哲学と非-哲学なるものの原初的で絶対的な区別を打ち立てたその声を、彼は聞き取ろうとするのである。ゆえに、聞き取られるべき声は、哲学を創始したギリシア人の言語でなければならない。原初的で絶対的な差異、すなわち「根源」を見出すために、「隠された歴史」に耳を傾けねばならないのである。母国語の中の他者、しかし、その他者が絶対的な差異の創出であること、歴史の開始であること、すなわち「来るべき言語」であることを、ハイデガーはどうやって示すのだろうか。「来るべき言語」が「来るべき言語」であることは、どのように「開示」されるのか。
 整理すれば、人間がではなく「存在」が歴史的に規定されているということ、および、そうした歴史の中から「隠された歴史」を問いによって明るみに出すこと、それがハイデガーにとって「世界」のリアリティである。要するに、「存在」を通じて個々人は個々人の力を超えるようなものと出会う(たとえば歴史、制度、組織・・・)のであり、「存在」(「歴史」)を問うことによって、歴史的なるものとの闘争という舞台の幕が開き、「存在」(「隠された歴史」)に耳を傾けることによって、「存在」を非-存在から峻別する根源を反復するような「世界」[というリアルな物語]が紡がれる、というわけである。彼は次のように書いている。「思索と詩作との会話は、死すべき人間をして、言語の中に住むということを改めて学ばしめるべく、言語の本質を喚起することを目指している。」*7


 ここで話を少し前まで戻そう。ハイデガーにとってリアルとは、「根源的」で「第一のもの」が「隠された歴史」の中から「開示」され「発現」することである。こうした思索を、彼は「存在を問う」と呼ぶ。「存在を問う」ことが可能なのは、「存在」が常に既に他者の声を携えているからである。だが、ここで再び想起しておこう。ドゥルーズはさらりと触れていた。「ハイデガーはかなり厳格にドイツ語とギリシア語(あるいは初期ドイツ語)しか使わない」、と。いったいなぜ「語源学」なのか、なぜ「ギリシア語」なのか。以前のエントリーで確認したように、そしてまたこれまで見てきたように、実のところハイデガーの論説においては、「覆いを剥ぐ」ということのみが、この「来るべき言語」に「根源」としての価値を与えているに過ぎない。「隠された歴史」は、それを覆うもの(現在、凡庸さ、機械的・動物的生)なくしては、「根源的」という優越的価値を、「歴史」の「重荷」という量感を得ることができないのである。ゆえに「根源」は「根源」それ自体によって価値を保証されているわけではないことが明白である。(むろん、無価値であることが証明されたわけでもない。)したがって、彼が特権視する〈ギリシア語=ドイツ語〉のラインについての価値判断は正当化され得ない。同様の批判は人間と動物の境界線についても言えるのであって、そこでは「動物の貧しい世界」が、すなわち凡庸さや科学主義や機械的生が、「現存在」を覆っているとされる。だが、「現存在」それ自体に「世界」(歴史)と非-世界の峻別を創始する絶対的な差異が保証されているわけではない。というのも、ハイデガーにおいては善悪や自由が‘問題’となることこそが、言い換えれば「世界」と非-世界との境界線をそのつど引き直し得ることが、「現存在」固有の可能性であるはずなのだから。(つづく)


関連項目 →http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080525/p1

*1:たとえば「命名」や「言葉」はその一例である。

*2:長くなるので割愛するが、むろん、ここで為された〈人間/動物〉の区別は不当である。「動物」のなかには、喪や哀悼というかたちで、人目から隠す・遠ざけるというかたちで、死への関係を持っているものたちがいるという点で、人間から区別され得ない。死に関する〈人間/動物〉の境界線についての批判は詳しくはデリダの著作『アポリア』を読まれたい。

*3:ハイデガーにとって、それは既存の存在論とは区別されるべき真の「根源的な」「存在論」である

*4:「作用して」に強調の傍点

*5:ハイデガーの知られざる先駆者、アルフレッド・ジャリ」『批評と臨床』所収 守中高明・谷昌親・鈴木雅大訳 河出書房新社 2002

*6:前掲書

*7:『詩と言葉』 三木正之訳 理想社 1963