『芸術作品の根源』 世界とは何か 1

argfm2009-08-31

 石は無世界的であり、動物はこと世界に関して貧しく、人間は世界形成的である(ないし形成された世界の住人である)。これは、ハイデガーによって人間(≒「現存在」)の本質を説くために立てられたテーゼである。この簡潔なテーゼに見られる区別は単なる質的区別ではなく*1、「現存在」および人間の優位を示す番付であり、格付けである。デリダが批判するように、なるほどこのテーゼには言語相対主義的な平等性という視点が欠けている。後に触れるが、「世界」の格付けに対するこのような批判に対して異議を挟む余地はない。そしてまた、文化的な営みそれぞれの価値基準を「根源的に統一」せんとするハイデガーの哲学が、「根源的」にファシズムと共鳴するものであることも間違いないだろう。だが、ハイデガーは無批判に手放しで人間の世界を賛美しているわけでもない。人間もまた動物(単なる生命)であることは、ハイデガーも充分認識している。ゆえに「現存在」と人間は同義ではなく、人間は「現存在という重荷を担う」とされているのである。*2ここで問題とされているのは、ただ単に生きているというだけの世界と、真に生きられる「世界」との差異―および両者に対する格付け、番付--である。ハイデガーにとって「世界」とは「いつも精神的世界である」が、「精神的世界」とはすなわち、そこで初めて自由と善悪が‘問題’となるような世界のことである。(ここからハイデガーは、人間がいなかった世界など無い、とまで言う。)動物は悪を為さず、人間のみが悪事を[悪事として]働く。*3この点はやはり強調しておかねばなるまい。物質的因果性から成る世界記述に対して「精神的世界」を擁護することがハイデガーの根本的なモチーフである。(デリダもまた、このことゆえに、ハイデガーの論説を簡単に切り捨てることのできない言説として問題視していた。)彼においては、何が「世界」であり何が「真にある」と言えるのかという存在論的問いは、善悪の判断あるいは自由や責任の発生と切り離して考えることはできない。ゆえに、 “問いとして”接するならば、ハイデガーの「世界」論は、なぜ人は自分たちの生きている世界をリアルなものと感じることができるのか、あるいは逆に、なぜ自分たちの生きている世界をリアルなものと感じることができないのか、を問いかける論説として読むことができる。冒頭に掲げた有名なテーゼは、こうした問いの表現である。このエントリーは以上の問いをめぐって書かれる。とりわけこのテーマに関して、なぜハイデガーを取り上げるのかと言えば、ハイデガーの「世界」が「作品」なしには考えられないような世界だからである。*4
 もう一度『芸術作品の根源』を参照しておこう。そこでは、「芸術作品」とは単なるモノでも道具でもない、何か別の事柄との結びつきを語る「アレゴリー」である、と言われていた。「アレゴリー」によって開示されるもの、それが「世界」である。したがって、「世界」とは直観されるものではない。だが、いかにして「アレゴリー」が可能となるのか、実のところ、この点について『芸術作品の根源』に見られる論証はトリッキーである。その批判については、「物象化」についてのデリダによる脱構築的アプローチを参照しつつ既に言及したので再度論じることはしない。(後に異なる文脈で触れる。)ここでの目的は、その際に充分に触れなかった「世界」についての考察を見てゆくことである。
 「世界」とは何か。ハイデガーによる論証は二つの異なる論理によって規定されている。一つは「世界」とはどのようなものかを考察する論理であり、他方は、「世界」を非-世界と区別することによって階層化された価値体系を作り出し、そこに「世界」を位置づけ、「世界」に価値を与える論理である。後者の論理はつねに前者の論理に働きかけており、この論理こそがハイデガーの哲学に生気を与えている。「真にある」「世界」すなわち真に生きていると言える「世界」と単に生きられるだけの世界との差異が問題である以上、両者の密接な関係は彼の哲学を扱う際には切っても切り離せないもののように見える。とは言え、彼の論説の矛盾はこの二つの異なる論理の混同・混合にあるのであり、デリダが様々なテクストでハイデガーに対し批判を加えているのもトドの詰まりこの点である。追々詳しく触れてゆくのでここでは簡単にとどめるとして、その矛盾とは要するに、ハイデガーにおいては予めそれ自体の価値が保証されていないということこそが「世界」発生の条件であるにもかかわらず、その同じ論理の中で同時に、「世界」の価値が揺るぎないものとして(「真の」「根源的な」「世界」として)与えられるかのように書かれている、ということにある。もし、ハイデガーの哲学の中でこれら二つの論理を切り離すことができないならば、彼の「世界」論はすべてまるまる放棄されねばならない。だが、ハイデガー固執する「世界」論は、それでも一つの「世界」形成の方法論ないし「世界」が発生する条件の考察であるからには、彼自身がそれをどのようなものと見なそうとしたかに関わらず、それ自体で批判的考察の対象たり得、評価の対象たり得るはずである。
 では、「世界」とはどのようなものなのか?ハイデガーの論説を見てゆこう。繰り返し確認すれば、ハイデガーにとって「世界」とは「精神的な世界」であった。ところで、ハイデガーにとって「精神」は「人間」に予め備わっているものではなく、歴史的な形成過程を持つ「存在」(たとえば「言葉」)への問いかけによって初めて「精神」が目覚めるのだとされている。*5精神が人間に受肉するのではない、その逆である。さもなくば、なぜ「精神」があるものにのみ受肉し、あるものには受肉しないのかという難問が解決されないまま残るだろう。ものを言う者であれば、あるいはドイツ語(ハイデガーの母国語にしてハイデガーが哲学する時の言語)を話す者であれば無条件に「精神」を持つとは、彼は言わない。ゆえに人間は「現存在という重荷を担う」と言われるのである。「現存在」によって形成される「歴史」ないし「世界」、それが「精神的な世界」である。
 「精神」が発生するための条件とは、「存在を問う」ことにあるとされる。「存在を問う」ことは単なる問いとは区別されねばならないと、ハイデガーは言う。この区別がそもそも問題含みのものであることは、先に確認しておいたとおりである。だが、何が問題含みなのか?まずは彼の論説を概観しておこう。ハイデガーによれば、「存在」についての問いは、存在者にとって日常と化し自明と化しているような、動物的・機械的生そのものを問う、とされる。たとえば、「問う」とは‘火事の原因は何か?’であるとか、‘作物が病気になった原因は何か?’といった問いであり、問いの有益性あるいは目的が原因と結果の連鎖として予め与えられている問いであるが、一方、‘なぜ火事の原因を問うのか(問わないこともあり得るのに)?’であるとか、‘なぜ作物が病気になった原因を問うのか(問わないこともあり得るのに)?’という問いは、未だ目的の定まらぬ、問う者自身に向けられた問うことへの問いかけである。(「なぜマティスの或る作品が在るのであって、むしろ無いのではないのか?」という問いでもよい。)かくして、「存在を問う」ことによって初めて、物質的因果性に規定された「動物的生」の中に善悪への問いが、自由と責任への問いが、要するに「人間」を「人間」たらしめる精神的なものが発生する、とされる。こうした経験こそが「出来事」と呼ばれるべきであると、ハイデガーは言う。「存在を問う」ことこそが「哲学」(および「詩」)の使命であり、ハイデガーにとって「哲学」(「詩」)はあらゆる学一般に先立つ思索なのである。たとえば、予備校や美術学校の初学年でやるような石膏デッサンおよび色彩演習(ハレーションを作る、とか等間隔のグラデーションを作る、などの)のような技術練習としての作品は、ハイデガーからすれば「精神」がないものであるし「出来事」ではない、ということになる。彼の用語で言えば、正確にはそれらは「作品」ではないことになるだろう。ハイデガーにおける〈人間/動物〉の境界線は、〈「作品」/非-作品〉の境界線でもある。「出来事」としての「存在」のみが「作品」なのであり、どんなものでも「作品」になるわけではない、ということである。
 では何が問題含みなのか?ハイデガーが「存在を問う」可能性として導入する境界線が、問題含みなのである。「存在を問う」ために必要とされるのは彼の論説において密接に結びついている次の四つの条件として整理され得る。その四つとはすなわち、「存在」、「歴史」、「闘争」、「死」である。これからこれらの語を順次検討してゆくが、その前に、簡単に何が問題含みであるのかを指摘しておけば、問題は、「存在を問う」可能性が哲学と芸術(学一般を否定項として持つ)という実体化されたジャンルに限定されていることにある。ハイデガーはあらゆる学に哲学および芸術(「詩」)があるとか、あらゆる技術に哲学と芸術(「詩」)があるなどといった考えには決してなびくまい。哲学という歴史的に形成されたジャンルが、すべての哲学を代表する思索(歴史)として位置づけられることを、彼はかたくなに守り続けるだろう。言い換えれば、そこでは、すでに哲学とされているもの、すでに哲学として登録され保護されているもののみが、出来の善し悪しはともかくとして、哲学なのである。そうした保護とはいかなるものか?なるほど人間は最初から「精神」を持つわけではなく、「現存在」であるわけでもなかった、しかし、ハイデガーの論説において、それでも人間は「現存在」への「可能性」という点で、予め動物から区別され保護されているのである。ここに矛盾がある。
 人間と動物の境界に引かれたこの絶対的な保護の線、すなわち「可能性」とは何か。「可能性」とは聴取の可能性(たとえば言葉*6を理解すること)である。先に掲げた四つの語、「存在」、「歴史」、「闘争」、「死」は、この「可能性」によって働きかけられ、その限界を保護されている。一見、「存在を問う」ことが聴取可能性(言葉を理解すること)によって規定されることは当然であるようにも思われる。たとえば日本語を読み聞くことができるのは日本語に通じた者のみであるし、漫画やアニメの言語はそれに通じた者でなければ分からない、数学や経済の用語もまたそれに通じていなければ理解できない。聴取可能性なしには、それらを問うことも、評価することもできないように思われる。行間を読むには「存在」への理解が不可欠であるし、我々は‘何かに取り憑かれたかのように研究に没頭する’などと言う。ゲームのルールを知らない者は、積極的に参加する者とは認められない、などなど・・・。だが、そうであるならば、聴取の可能性はただ単に一つの歴史的生成(問うことと出来事によって生成する世界)の条件であるに過ぎないのであって、それに参画するものの内実(「人間」とそれ以外の存在者との境界線)を予め規定するものでないことは明らかである。この点については後にまた掘り下げるのでこの位にとどめておく。以上の前置きをふまえた上で、「存在」、「歴史」、「闘争」、「死」を見てゆくことにする。(つづく)

*1:人間と「動物」が異質であるのは論じるまでもない。http://goo.gl/guIzk4

*2:人間は「可能性」という点で特権化され、他から区別されている。

*3:だが、ちなみに私の飼い犬は悪事を[悪事として]働く。たとえば、何か猛烈に不満のある時―散歩に連れて行かないなどの--、彼はしてはならないとわかっている場所に大量の小便をする。

*4:この視点からハイデガーの哲学にアプローチする時、ハイデガーのいわゆる「転回」はさほど問題にならない。

*5:ゆえに、ハイデガーは人種主義に抵抗することができる。

*6:厳密には「存在」