すもも画報 in 台湾 その3  *10/11一部改訂

argfm2011-10-08

 ツアー初日のこと、沖縄に行った経験のあるパートナーが、バスの窓から見える山間部の墓地を見て沖縄と同じ亀甲(きっこう、かみぬくー)墓だと指摘する。石敢當(いしがんとう)もある、とさらなる指摘。与那国島から台湾へは111キロだが、漂着した人々はともかく日台間で本格的に交流が始まったのは大日本帝国による台湾統治(1895年)以降のこと。1935年頃には一万人を超す人々が沖縄から台湾へと移り住んでいたらしい。終戦後、国民党政府によって日本人は国外退去を命じられるも主に政治的な思惑から沖縄県民については希望者の滞在が認められ、3万人余の沖縄県民が残ったという。*1ツアー主催者の一人である沖縄出身伊禮武志さんに訊ねたところ、日常会話にもいくつか沖縄の言葉が入っているとのこと。
 集合場所で不老部落へ向かうバスを待ちながらデンジャラスタクシーの件を吹聴していたら、ツアー参加者の方から台湾のテレビには一日中二人でカラオケを歌っている番組があるのだと聞かされる。「リクエストはこちらへ(携帯電話の番号)」と画面にテロップが出るらしい(笑)。ホテルでテレビは見ていないが、台湾にはものすごい数のチャンネルがあるそうだ。さて、今日はどしゃぶり。というわけでバスの外はほとんど見えない。昼前に不老部落へ到着する。と言っても部落の前にバスが乗り付けるわけではなく、少し離れた場所までバスで近づき、そこから先は徒歩&車での移動になる。今回訪れたのは台北市から南へ直線で4〜50㎞の距離にある宜蘭(ギーラン)県大同郷。まずは川に架けられた、ヒト二人並んでぎりぎり通れる幅の吊り橋を渡る。長さは200〜300メートルくらいだろうか、雨で足下がつるつる滑ってけっこうスリリング。橋を渡り終えたところで、4WDがお出迎え。なるほど4WDでなければならないと納得の、彼らが自ら切り拓いたというお手製山路をガタガタと登る。
 不老部落はタイヤル族の部落ではあるが既存の部落ではなく、観光目的で保存されているわけでもない、2004年に有志によって立ち上げられた新しい共同体だそうである。村の名前の不老部落(Bulau bulau)は日本語のブラブラと同じ意味。「ブラブラ」はタイヤル語にも入っているらしい。*2車で出迎えてもくれた創立者の潘さん(以下お父さん)によれば、近代化が進むなか、もともと文字を持たないタイヤル族の文化がこのままでは失われてしまうとの危機感から、村の立ち上げを思いついたそうである。文字を持たない文化(生活の技術)を継承するとはすなわち我が身を差し出すということで、そこがなんともスゴイ。雨はいいよ、酒が飲めるからね、雨が多いと子供が増えるんだと下ネタ混じりの冗談をかますお父さんは、ちなみにタイヤル族ではない。
 ここで台湾をまったく知らない私のようなヒトのために、基礎知識。台湾の全人口に対し、2008年現在で台湾原住民の占める割合はおよそ2%。その中で、主に台湾中央山脈北部が居住地域とされる泰雅(タイヤル Tayal)族はアミ族に次いで2番目に人口が多く、およそ8万5千人。*3今回訪れた不老部落の人口は7家族35人というから、彼らがいかに希少な存在かが分かろうというもの。で、その希少な人たちは子作り以外に何をしているのか、それが今回の話題である。不老部落のHPはこちら、じゃんっ!→http://www.bulaubulau.com/
 村に到着すると「ろーかーすー」と大声で歓迎の声。雨に濡れた身体を囲炉裏で暖めながら、ふるまわれた豚肉を自分たちで焼く。ウマイ。ここで迎えの粟酒をもらうのだけれど、これ、まじウマイっす。みんな「マッコリ」のようだと言っていたけれど、ふだんあまり酒を飲む機会のない私はマッコリを飲んだことがない。たぶん「マッコリ」に似ているのだろう。黄色みを帯びた濁り酒で、すっきりさわやかジュースのよう。粟というと小鳥の餌を連想するが、ここの粟は違う。「違う」と、ガイド役のカリ(Kwali)が言っていた。粟についてはだいぶ苦労したそうで、というのも、粟酒として用いていたかつての粟は今では作られておらず、そのため少しずつ少しずつ品種改良して酒に使える粟を作り出さねばならなかったのだ、とか。最近ようやっとモノになってきたところなのだとか。彼によれば、街で「小米酒(粟酒)」と称して売ってる酒はバッタモンだそうである。
 一杯引っかけた後はお食事のテーブルへ。やけに小洒落た料理が出てくるじゃねえかと酔った頭脳で思いを巡らせていたら、カリはオーストラリアの大学でホテル経営やウェブデザインなどを勉強していたらしい。不老部落のHPがおシャレなのもこれで説明が付く。出てくる料理はすべてここの部落で作った野菜。ウマイ上に、もちろん無農薬。カリは多くのタイヤル族が生活のため土地をレンタルに出したものの農薬で土地を使い物にならなくされて(あるいは「して」)しまったことに憤っているようだった。虫や動物による被害には未だに困らされているらしいが、それでも今ではヤツらもまた「原住民」なのだからと、半分あきらめたそうだ。「税」を払わねばならないのだ、とも言っていたけれど、彼が「税」と呼んでいるのは作物を育てさせてくれる環境(自然の生態・サイクル)を維持するために必要な、環境へのフィードバックのこと。誰かがパクったりちょろまかしたり勝手に利益誘導のための投資に使ったりできるようなもののことではない。その都度自律したものとして現れる自然と人間それぞれを維持し境界を保護するためのものであって、その限りで、寛容を前提とした交換ではあっても「余剰」の占有による支配を許すものではない。そもそもこの不老部落に感心させられるのは国家からの直接的な支援を受けていない、というところ。カッコイイっす。
 もともとが狩猟民族であるタイヤル族は農耕の知識があまりないらしく、農業を始めるに当たっては紆余曲折、何が栽培に適しているのかなどすべて一から始めたそうだ。長老はいても頭目はおらず、すべては合議制。そんなところを採っても、この部落が単なる観光用保存村でないことは明らかだが、村の景観もまた独特。まるで自然の作った公園に住んでいるかのよう。私たちゲストをもてなす小屋を挟んで、背後が居住地域、前方が耕作地帯と分けられている。不老部落の言い出しっぺでありカリのお父さんである潘さんはランドスケープのデザイナーだというから、なるほど。
 と、次から次へと出てくる美味しい料理を前にこういった部落成立史を聞かせてくれるカリはかなり熱心に喋っていた。青木由香さんはずっと通訳して下さっている。給仕してくれる村の人達は卓に来るたび「ロカロカー」と言って乾杯を求めてくるがこれをマジメに受けているとかなり酔っぱらう。自分のマジメな性格が恨めしい。結構ぐれんぐれんになったところで、カリからツアーのみんなに向けて民族ダンスの提案が。激しく雨降りのため、普段通りにみんな外でダンス!というわけには行かず、ゲストが男女一人ずつみんなの前で求愛のダンスを教わることに。ラッキーにもダンス教わり係になり、口琴を習う私。口琴を鳴らそうとぽっかり口を開けたヘン顔が面白かったようで、一同大ウケ。ウケてよかったです。
 ここで求愛ダンスの踊り方講座。まず左足を後に蹴り上げ、前傾姿勢で右足に全体重を乗せ、片足状態でぴょんぴょんと跳ねる。ここで足の強さを意中の女性にアピール。次に背筋を立て、上げた右足を開いて身体の側面へ持ってゆき左足で全体重を支えながらぴょんぴょん。ここで大事なトコをアピール(笑)。この一連の動作をびよんびよんと口琴を鳴らしながら太鼓の音に合わせて繰り返す。酔っぱらってヘッドバンキングって、あほか、あほなのか、タイヤル族・・。私の求愛の相手を務めて下さったのはカリのおばさんのサクラさん。相手が気に入ったら右足左足交互に上げて、びよんびよんしながらランランランと互いの足を触れあわせます。最後に二人で頬すり合わせて一つの杯を飲み干し、めでたし。めでたし。(つづく)

*1:参照;『観光コースでない台湾』片倉佳史著 高文研

*2:台湾の原住民は大日本帝国による統治時代に日本語教育を受けており、原住民の言語には日本語が入っている。

*3:レアルマドリーサンチアゴ・ベルナベウの収容人数が8万5千人である。(レアルファンじゃないですけど。)