最近の展覧会から(3)

 作品を成立させるためには私の身体の一部(キスや靴)が必要であり、必要とされることは私にとって名誉であり利益であるかも知れないが、しかし一方で、それはもはや誰のモノとも知れぬモノと成り果てる。靴もキスマークも、私のモノであったという事実を必要としていない。私は必要とされると同時に必要とされていない。だから切ない。ときに極悪非道とも言うべき作家の指示を我々哀れな鑑賞者が強固な自由意志をもって拒否するならば、しかしそもそも作品が成立せず、見るべきモノは何もないということになり、したがって我々鑑賞者は鑑賞者たり得ない、という点は、橋本の今回の作品がこれまでのものと共有している仕掛けである。その意味で、鑑賞者は「拘束」され、鑑賞者であることを「強制」されていると言えるだろう。(全ての彼の作品がそうであるというわけではない。念のため。)
 だから鑑賞者はもうずっと前から、この作品が作品の体を成す以前から、この作品を観るという行為において、作品の制作に関与することを約束していることになるわけだ。橋本の作品を「イジワル」だとか「イヤらしい」とか形容することに異義はないけれど、加えてそのイジワルっぷりはここに求められねばならぬ、と私は思う。作品が成立するために差し出され賭けられているのは、作家ないし作品の生(自己性)ばかりではなく、鑑賞者の生(自己性)なのである。死んで花咲くデッドボール。鑑賞者はときに自らを危険に晒すことを求められさえする。まるでのび太くんとの結婚を決意するしずかちゃんの心境である。さて、ここまでが、私が橋本聡による今回の展示から読み取ったことがらのいくつか、書いておきたかったことのすべて、である。ここから先は私の白昼夢であり、ただいまのところ結論は見えていない理論的彷徨である。最後に、充分に頭脳を刺激される展示であったことを付け加えておきたい。


 さてさて、だが、しずかちゃんはどうなるのだ?しずかよ、ほんとうにそれでいいのか?「死んで花咲く・・」などと言うが、ほんとうに「咲く」のか?少なくとも、橋本の今回の作品の中では、鑑賞者が「咲く」ことは考えにくい。できることはわずかだ。(だから切ない。)だが、これらの作品が提示するような、作品なるものを構成する諸関係にインスパイアされ議論を展開することは可能だ。気がかりなのは、しずかちゃんの存在である。
 のび太くんとしずかちゃんの関係、その立場の違いは、ニーチェが指摘していた二つの異なる交換の在りよう*1に似ている。ひとつは、何かを得ることで自らの成長を得ようとするような交換、これはのび太くんである。他方は、自らを差し出すことによって開花しようとする交換、これはしずかちゃんである。その関係は、『ガラス越しの口づけ』における作家と鑑賞者の関係にも、ちょっと似ている。*2しずかちゃんもおヨメさんである限りでは誰でもよい誰か(キスマーク)として自らを「差し出す」、しかし、そこに収まらない何かがあるのであって、でなければそもそも、なぜのび太が親に命じられたわけでもなく他でもないしずかちゃんを選んだのかが分からない。もっとも、それが何であるのかはのび太くんにさえはっきりとは認識されていないはずだけれども。(しずかちゃんは悪女かも知れないではないか。)ゆえにまた、誰のキスか分からないが誰かのキスであるには違いないガラス越しのキスマークが不気味なのでもある。
 しずかちゃんの存在が、のび太を惹きつける固有な魅力を備えつつしかしその正体がいまだ「不確定」なものとしてあるとき、二人の関係は芸術作品の比喩になる。(芸術作品とは、誰と問わず観たり聴いたり読んだりできるがゆえに人を引きつけるにもかかわらず、未だ誰にでも意味がわかるというものでない、なんだかよく分からないもの、である。)それを比喩と呼んで理論的モデルと未だ呼ばない理由は、問題が交換の有り様であるからには、別段、具体的かつ特定の結婚という制度に縛られる必要はないからだが、さて、これはしかし未だ芸術作品に‘ついて’の比喩であって、芸術作品の構造そのものを解明するものでない。(別タイトルへつづく)

*1:『悦ばしき知識』363

*2:のび太くんとしずかちゃん、作家と鑑賞者・・・、これらの対において言及されないものこそが、「しずかちゃん」ではないのかということが、橋本のパフォーマンスについて、実はずっと引っかかっている。