最近の展覧会から(2)

 今回展示されている橋本の作品は他に四つあるが、中でも『ガラス越しの口づけ』は『階段の上に置かれた靴』とほぼ同様の構造を持つものであるから、ここでは詳述しない。どんな作品か、ぜひご自身で確かめられたい。二つの作品が良く似たものであることは決して悪いことではない。というのも、そのことによって、コンセプトが明快になっているからである。『ガラス越しの口づけ』はギャラリー備え付けのガラス扉を用いた作品であるが、一応、「応相談」のオープンプライスではあるものの、これまた売られている。ただし、購入者による販売者への口づけが要求される。*1
 さて、会場中央に置かれているのは橋本のパフォーマンス・イベントを収録したビデオ作品である。コンセントがつながっておらず、ビデオを見るためにはテレビを抱え持ち上げ、天井からぶら下がっている電源へと自分でコンセントをつながねばならない。働かざる者観るべからず。数十分はありそうな記録映像を見るために決して抱き枕のようには軽くはないテレビを抱えて腕をぷるぷる震わせながら、とっても見づらい姿勢のまま、ビデオ鑑賞するわけである。二人いた場合一人は楽ちんである。楽ちん担当は近所のイタメシ屋で晩飯をおごるのでなければならないだろう。ちなみに、この作品の‘値段’は「79㎏の貨幣(あなたが持ってくる)」とされている。作品コンセプトに沿ってはいるが、ここまで紹介してきた他の作品に比べると、ユーモアに力点を置いていると言ってよいのではないか。「79㎏の貨幣(あなたが持ってくる)」について細々言うのがはばかれるのは無粋を避けんがためである。
 ここでの見所はやはり、収録されたパフォーマンス・イベントの方であろう。会場から離れた街なかに出てヌイグルミのように動こうとしない作家(橋本)を、イベントに参加した人々が協力してギャラリーまで運び込むよう命じられこれに従う、というものらしい。(今回の展示にあわせて行われたパフォーマンス・イベントとは別のもの、別の機会に行われたイベントの記録であるらしい。)参加者にとってはちょっとした「災害ユートピア」状態であろう。「であろう」と書くのは、私が参加していないからである。ゆえに細かく書くことも分析することも叶わない。かえすがえす、雑事に阻まれパフォーマンス・イベントに参加できなかったことが悔やまれる。これまでの橋本作品から少し進んでいるように思われる点は、これはもはやパフォーマンス・イベントという枠組みを知らずとも、自動的に参加者が集まる可能性がある、ということにある。言いかえれば、アーティストと観客であるとか、アートプロジェクトと参加者であるとかいった力関係に、必ずしも頼る必要がない、ということである。*2街なかにぐったりとヌイグルミの様に動かない普通の身なりをした若者を見かけて、声を掛けない人間がいるだろうか。(つづく)

*1:自分の唇の痕跡が誰のモノとも知れぬまま、どこかの誰かに所持されるわけである。また、ここに入り乱れたキスマークは、性別も誰のモノかも分からないが、これを所持する人は、一体何を考えてこれを購入・保存するのだろうか?

*2:「進んでいる」とは、彼のある方向性において、という意味である。アートの外。