パレルゴン(14)

(つづき)
 カントによれば、「美」とは自然によって生み出されたのでなければ何ものでもない。「美に関する知性的関心について」という節において、カントは趣味判断を、突然に、「単なる趣味判断」と切り捨てる。石器とチューリップの事例において明らかであった矛盾は、趣味判断本来の目的(使命)が告げられることによって覆い隠される。真の趣味判断と単なる趣味判断があるのだ。ここで問題とされているのは「美」そのものではなく、「美」によって惹起される関心であり、言い換えれば「美」の値打ちである。(したがって「美」とは「単なる美」でしかないだろう。)カントは次のように書いている。「我々が、美を美としてこれに対して直接的関心をもち得るためには、関心の対象は自然そのものであるか、或は我々が自然と思いなすところのものでなければならない。まして他の人達もまたその対象に対して直接的関心をもつべきであると要求するような場合には尚更である。」なぜならば、「『かかる美を産出したのは自然である』という考え」こそが、美しいと感ずる心を認識へ、道徳へと結びつけるのだからである。もし、観照される美において「自然」が作用しているのでなければ、「純粋理性」(認識)や「実践理性」(道徳)といった知性的な関心が、想像力において反省され得る諸形態へと向かうこともないだろう。自然のみが、そうした諸形態が産出されることの驚きを我々に与えることができるのである。ゆえに、「技術の美」(芸術)は「自然における美」に劣る。「芸術通」と呼ばれる輩には、「ついにかかる美しい魂を我が物として誇負することができないのである」。
 美は認識ではないが認識を準備するのでなければならず、美は道徳ではないが道徳を準備するのでなければならない。(思い切って単純化すれば、野生のチューリップを美しいと感ずる人は、必ずしもモラリストではないかも知れないが、道徳心を抱く見込みはある人だ、ということである。)『判断力批判』は他の二つの「上位の形式」(認識と道徳)に対して、それらを橋渡しし、それぞれの判断の正しさを保証するという使命を託されている。自然および自然を観照することの正しさが必要とされるのはこうした目論見においてである。趣味判断を介して、知性による関心は想像力において反省され得るような諸形態を産出する“自然の”驚異に向かうのであって、想像力において反省され得るような諸形態を産出する“人為”の驚異へと向かうのではない。だがしかし、人為的産物である芸術は『判断力批判』に対して終始事例を提供し続けている。いったい、カントが芸術を自らの美学から閉め出すことなく論じ続ける理由とは何なのか。その理由が『判断力批判』において明らかにされることはなく、カントは常にこの点で苦労している。(その目的については既に見て取った。)『判断力批判』の中で、芸術が事例を提供し続けるのはなぜか、その理由はデリダによって次のように示される。


 「今や我々にとっては既知のものであるすべての理由から、趣味の規則はもろもろの概念によって規定されるがままにはならない。にもかかわらず、一つの普遍的な伝達可能性、可能なかぎり最も完璧な調和が、あらゆる価値評価を条件付ける。しかし、それは必然的に経験的であるような基準に従ってなされるのであり、カントも認めるように、そのような基準は薄弱なものであり、かろうじて、あらゆる人間のうちに深く隠されている一つの共通の原理についての推定を支えるのに十分な程度のものであるのだ。諸規則の一般的な概念が存在せず、普遍性があいかわらず必要とされるために、範例的なものの価値、趣味の範例的な産物の価値が、唯一のもしくは主要な参照物となるのである。(強調有賀)」(つづく)