『フリータイム』(予定)

 チェルフィッチュの『フリータイム』を観てきた。
 『フリータイム』の劇評を書こうとして、ふと、たまたま手に取ったヴァージニア・ウルフ(1882〜1941)の言葉にためらった。ここで彼女の作品としてはさほど重要とも思えないエッセイをあえて採り上げるのはそうした理由からである。ヴァージニア・ウルフは『書評について』(1939)*1において、批評を三つに区別している。まず学的な批評(「歴史、政治、経済の書物の書評」)があり、これは「概して役目をしごく十分に、かつ、実に見事に果たしている」。ついで、学的な批評と美学的判断としての批評(「詩、劇、小説などの文学作品」について「過去および原則を扱い」、「ゆっくり時間をかけ、たっぷりの枚数を」書く)の区別がなされた上で、さらに美学的判断に基づく批評の中でも時事的に書かれるものが「書評」として区別されている。最新の文学を選り分け、セールスと切り離せない、新聞や雑誌、ブログなどに載るタイムリーな批評はすべて「書評」に含まれると考えて良い。これらは単なる区別ではなく、階層化された区別である。こうした階層化から理解されるだろうように、「書評」とは学的に有用でなく、美学的にも充分な知識を携えて事に当たってはいない‘風評’のようなものに過ぎない、とされる。彼女を立腹させているのは、というのは彼女に根拠も確実性も充分に示しえぬままに「書評」なるものはいずれ消えてなくなるだろうと断言させた何かであるが、それは「書評」の信用のおけなさであり、信用のおけなさにも拘わらず評判や市場を形成するというその権力である。「書評」で叩かれれば作家は次の仕事がなくなる恐れがあるし、ただですら生活に困っている作家ならばなおのこと苦しむことになる。そんな作者の苦労を尻目に、書評家たちは自分たちの生活を維持するため、ウルフは彼らが「教育ある階級の出身なので、その階級の水準に応じた生活をしなければならない」のだと憎悪を煽り募らせているのだが、そうした生活の維持のために、彼らによって時間を充分にかけることもせずに書き飛ばされたものが「書評」である。おまけに「書評」は判断の点で矛盾に満ちており、結局のところ読者が自ら作品にあたって自分で判断を下すよう奨める始末である。風評が創り出す‘現在性(アクチュアリティー)’の効果への不信感と、風評によって作品が読まれたり観られたりする機会を奪われることに、彼女の憤りは発しているのだろう。だが、一方で作家たちは、誰かが自分の作品について「なぜこの作品が好きか、なぜこの作品が嫌いか」と語るのを聞きたいと願ってもいるのだ、と、ウルフは言う。
 彼女の提案は次のようなものだ。すなわち、まずは、「書評家」たちは自らが批評家としての資格を有する者であることを証明するために著書を出版しなければならない。その上で、作家たちは自分が批評してほしいと思う著者の所へ赴き、「開業の資格を具えた」「医者」の診断を受ける時のように、お金を払って個別に批評をしてもらえばよい、というのである。なるほど、誰でもいいというわけではない尊敬する○○先生に自分の作品を批評してもらえたらどれほど有益であることか、それは作家であれば誰もが心密かに抱く願いだろう。たとえケチョンケチョンにけなされたところで、評判が落ちる心配も、生活難に陥る心配(生活難から脱け出す希望を閉ざされる心配)もない。けなす方もさぞかし気が楽だろう。
 ところで、彼女による問題提起の要点としては二つの事柄が良く区別されぬまま混同されている。一つは市場優先主義によるアクチュアリティーの捏造という事態であり、もう一つは、そもそも批評とは何なのかということである。*2まったく無関係ではないこれらの問題を、しかしとりあえず区別して考えを進めよう。
 前者の問題は、つとにクリシェと化した感があり、詳細に論じるのでなければ意味がない。別項で論じ直すことにして、ここでは省略しよう。後者の問題から始めよう。ウルフ自身が書いてもいるように、批評は自然発生的である。「『ハムレット』の批評はなかったし、『失楽園』の書評もない。当時、批評はあったが、劇場で観客の口からとか、酒場や個々の仕事場で同業者の口から、といった風に、口頭で伝えられる批評であった。」誰もが日々何かについて批評している。たとえばある料理について、どのように素材を育て、あるいは捕獲し、どのように運搬し、どのように調理したか等々を知らなくとも、われわれはこれが美味いとかこれが不味いとか批評する。こうした批評を止める(とめる)ことはできない。自然発生的な批評は趣味の涵養なり、感性の錬磨なりに寄与するだろう。無人島(アパートでの一人暮らし)にある人も、身だしなみにはこだわらなくなるかも知れないが(パンツ一丁で歩き回ったりするかも知れないが)、不味い料理を好んで食したりはしないだろう。こうした経験は、決して他者に代わって経験してもらうことはできないのだから、伝達不可能である。人がなんと言おうと美味いものは美味いのだし、不味いものは不味い、それが自然発生的な批評である。とは言え、「なぜこれが好きか、なぜこれが嫌いか」を語ることはできる。パクチーについて、「この香りは亜熱帯の湿り気を帯びた空気、雨上がりの野生の大地を思わせる」とか、キムチについて、「この辛さは腹筋自己ベストを達成しようとする直前に突如喚起される負けじ魂を思わせる」とか、語ることはできる。どこまで他者の同意を得られるかは別にして。なぜ言うかと言えば、二度と食べたくないとか、また食べたいとか、(私一人しかいないとしても、未来の私に向かって)伝えるためである。
 ところで、そうした批評は感覚による享受である限り、そもそも他者と共有されることを約束しているわけではない。体調が悪かったり機嫌が悪かったり頭が悪かったりすれば、そしてそうでない保証は決して与えられないのだから、自分の一人の経験ですら不確実である。最初の新鮮な感覚を二度目以降は味わうことができないということもしばしばある。ウルフが立腹しているのはおそらく、こうした「趣味」に過ぎないものが、他者の合意を要請し、選別や評価の役割を担うことに対してである。「食べたくない」と言うことと、「誰もが食べたくないと思うだろう(食べるに値しない)」と言うこととは異なる、同様に、「面白かった」と言うことと、「誰もが面白いと思うだろう(一見の価値あり)」と言うこととは異なる。「趣味」による「書評」は、その内容において再帰性を持たない以上は「判断」たり得ないにも関わらず、文章として公表されることにおいて再帰性を有し、あれを読むべしこれを読むべからずといった「判断」であるかのように振る舞う。(誰もが同じ文章 [文句] を口にするようになる。)そして彼女に従うならば、「書評」なるものは「趣味」でしかあり得ないのだから、それを活字にするべきではない(他者によって共有される必要がない)ということになるのだろう。(つづく)


みすず書房 → http://www.msz.co.jp/

*1:『病むことについて』所収 川本静子編訳 2002みすず書房

*2:‘市場優先主義’と書いたが、‘主義’というとなんとなく主体の自由意志が関与する事柄のように受け取られがちなので誤解のもとのように思われる。けれど、慣例に従って、こう記しておく。