パレルゴン(13)

argfm2008-03-09

 (つづき)
 「“美”は、合目的性が“目的の表象によらずに或る対象において知覚される限りにおいて、この対象の“合目的性”の形式である。


 この説明に対して異議を申し立てる人があるかも知れない、それは----我々が或る物について[一定の]目的を知らなくても、そこに合目的性の形式が認められるような物がある、例えば古墳からしばしば発掘される石器には、柄をすげるための孔が付してある、我々はかかる石器の目的を知っているわけではないが、しかしその形態は明らかに合目的性を示している、それにも拘わらず我々はこの石器を美であると判定することはできない、という異議である。しかしこれらの石器を人工物であると見なすことは、すでにそれだけでも我々がかかる石器の形態をなんらかの意図なり或いは一定の目的なりに関係させていることを承認せざるを得なくするに十分である。またそれだからこそそのような石器を観照しても、直接的な適意がまったく生じてこないのである。これに反して或る花、例えばチューリップは美しいと言われる。それは我々がある種の合目的性----換言すれば、我々がこの花を判定する場合のように、いかなる目的にも関係せしめられないような合目的性が、この花の知覚において見出されるからである。」


 こうした事例が出されることによって明らかになることとは、趣味判断(目的なき合目的性)の「自由」の正しさは(「目的なき」の「合目的性」は)、それが「自然」や「天才」という‘概念’*1に支えられている限りにおいて、予め保証されていたということである。*2そもそも趣味判断とは、「概念を用いずに形式を判断し、また形式を判定することに適意を見出すような能力である」はずであった。つまり、目的なしに主観的表象の形式によって、対象から触発された感情の能動的な活動における普遍性を判定する能力であった。そうであるならば、石器すなわち人工の産物であろうとチューリップすなわち自然の産物であろうと、「目的なき合目的性」によって快の感情が生じる可能性を否定することはできないはずである。この矛盾をカントが認めないとすれば、その理由はただ一つ、趣味判断は「自然の観照」である限りにおいて合目的性を得るのだからに他ならない。なぜなら、「自然」こそが、「我々の」認識を超えてはいるが遅かれ早かれ認識される‘だろう’ような形式の存在を保証するからであり、「自然」こそは、構想力を独り立ちさせるためのパレルゴンたる「悟性」そのものだからである。しかし、趣味判断がそうした悟性へと到達することは決してないのである。
 自らの「自由」と引き替えに政治にも経済にも社会にもモラルにも技術にも感覚にも無関心であるべき趣味判断は、いかなる認識にも到達してはならないのだから、趣味判断の主体は、ただただ認識の手前にとどまり続けるだろう。わたしにはそう見えた、そう聞こえてしまった、そう読めた、そう思う、と呟きながら。人は対象を遠ざけつつ、自らを一つの主観に過ぎないと断りつつ、触発による受動的なものであることを根拠にして、つまり受動的であるからにはそれが自然物理の一環ででもあるかのように、「自由な」構想力の錯綜に対する客観性を対象によって保証してもらおうとする。詳しい検討は別項において行うとして、これは通俗的な‘フォーマリズム批評’*3として流布しているものでもある。そこにあるのは作品を背後から統御する存在(「自然」、「天才」)が‘我々の’正義や理想と同一であるということの盲目的な信仰であり、欠如しているのは対象を論理的必然において記述しようとする努力および他者を代理することへの責任である。「現象学者は知覚される物事ではなく、物事についての知覚を記述する」と、自らもまた現象学者に他ならないデリダは言う。
 少し寄り道だった。趣味判断はいかにして人為的産物である芸術に適用されうるのか、このことこそが、先の引用から導き出されるべき問いであった。(つづく)

画像リンク先 →〈チューリップ花図鑑〉http://www48.tok2.com/home/bulb/Tulipa/tulipa-keitou.htm

*1:不定の概念」と呼ばれる。

*2:話が長くなってしまうので、なぜ「自然」が要請されるのかについてはここでは詳しくは触れないが、基本的に『判断力批判』が『純粋理性批判』および『実践理性批判』を基礎づけるものとして目的および結論を先取りしつつ書かれていることにそれは起因する。

*3:対象の分析と鑑賞する構想力の整合性[批評を書くことそれ自体の能動的な「快」および対象との部分的な「偶然の一致」]とをはき違えた形式主義という意味で使っている。