篠崎英介 『Mowing-Devil』

argfm2010-12-23

 篠崎英介の個展『Mowing-Devil』*1へ行ってきた。なんだか聞き慣れない名詞が展覧会タイトルになっている。Wikipediaによると、「Mowing-Devil」とは17世紀にイギリスで発行された、ミステリーサークル(crop circle)に関する最も古い報告記録(チラシ)のタイトルであるようだ。当のチラシに書かれているのは、自分の農地の草刈りをするために使用人に金を払うのがいやで、代わりに悪魔に刈ってもらった地主の話だそうである。悪魔に刈ってもらった方が高くつくのではないかとか、悪魔はなんの比喩なのかとか、それはさておき、木版画で掲載されている草刈り後の農地の様がミステリーサークルそっくりである。今日ではミステリーサークルの“作り方”はよく知られているが、版画を見る限り悪魔もまたこのよく知られた手法で作っているようにも見える。草を刈る悪魔=Mowing-Devil。
 会場には作品が三つ展示されている。*2一つは壁に、二つは床に。壁に設置された作品はちょっと理由があるので後回しにして、床に設置された二作品について、主に『brick』について、見ていくことにする。


 レンガでできた作品『brick』は、不思議な感じを与える。『brick』の不思議な感じは、レンガを重ねて組んでいるにもかかわらず、なぜか全体がフニャフニャしているということにある。(写真だとこの感じが分かりづらいかも知れない。)一本一本はそれなりに重そうな木材で組まれた『squared timber』もまた、どことなしに、吹けば飛びそうな軽さの感じを与える。では、この不思議な感じを生み出すロジックとはどのようなものなのか? なぜ、この作品から受ける感じを不思議だと思うのか? 
 『brick』はレンガを積み上げてできている。それは間違いないが、しかし、重心のかかり方を見れば、単に積み上げてできているわけではないことが分かる。そのことが分かるように作品はできている。下からレンガを順々に積み重ねていっただけでは作れない。にもかかわらず、積み重ねただけで、レンガを支えたり接着したりする媒体(媒介)を伴うことなく、自立している。だから不思議な感じを覚える。
 塵も積もれば山となると言うけれど、一つ一つの塵はそれに先立つ塵を確実な足場としてただ積み重なる(支えきれない部分は振り落とされる)だけであり、塵が積み重なるプロセスにおいて、塵と山との間に構造上の変化はない。つまり、塵か山かは主観的なローカルな区別でしかない。(塵を見て山を予想したり予言したりすることもできる。)塵山は大きくとも小さくとも常に円錐を目指す、これもまた自然の必然に従った、その意味で自立的と言えなくもないが、しかし自立する----自ら立つ----構造とはそういうことではない。相対的によりエントロピーが小さいということではない。(たとえば水蒸気よりも氷のほうがエントロピーが小さい。が、これは塵山問題と同型である。)そうではなく、ある秩序をとって初めて自立-自律するという構造がある。たとえばエンジンの循環構造がそうであり、地球における水の循環構造がそうである。これらは〈AならばB、BならばC、CならばA〉といったように因果的出来事の連関が循環することで自立的な構造を成しているが、その部分、たとえば「AならばB」だけを取り上げて観察してもその全体を予想することはできない。すべてが組まれて初めて、一挙に、それとして現れ、自立することができるのである。先の塵山を放置生成型自立構造と呼ぶとするなら、こちらを発明型自律構造とでも呼ぶことができるだろう。『brick』はこちら、過去の生成プロセス(時間的順序および機能)の意味が、構造が成立するその瞬間において一挙に書き換えられ決定される発明型自律構造になっている。
 発明を発明として認めることができるためには、それがいかにして作られているかについての考察が不可欠である。(言いかえれば、作品や事物を手段としてではなく目的として扱う、という態度が必要である。)発明型自律構造は、放置生成型自立構造を排除しはしない、むしろ放置生成型を前提としているがゆえに、発明型自律構造の解析には困難が伴い、時間もかかる。超人間的な悪魔の存在を信じないリアリストにはそれが発明(=作品)だということさえ、気がつかれずに終わることもあるだろう。だが、ひとたびこの作品はいかにして決定されているのかと思いを巡らせてみるならば、観察によって、不思議な感覚へと導かれる。我々鑑賞者が不思議な感じを覚えるのは、作品が自立するための構造上の基点(支点)および機能的連関をすぐには読み取ることのできない、『brick』に見られるような、生成における意味(機能)の劇的な変換を目の当たりにすることによるものと、私は考える。我々鑑賞者は、我々が経験的に想像する放置生成型の自立構造と、作品独自の自立構造たる発明型自律構造との間の違いを見ているのであり、そこに不思議な感じを覚えるのである。(『squared timber』も作品の構造は違うけれども、同じことが言える。)


 最後に、なぜ壁に掛けられた『rubber tube』を後回しにしたかと言うと、と言うか、結局言及しないのだが、この作品だけは、私が展示会場で見たものと後に作者が来場者に宛てて送ってきてくれた会場写真に映っているものとが異なるからである。どちらが先でどちらが後なのかを、私は知らない。*3写真に写った作品は良いと思うが、実見していないため触れずにおく。

*1: 四谷アートストゥディウム ギャラリー・オブジェクティヴ・コレラティヴ http://correlative.org/exhibition/2010/maestro/shinozaki/info.html

*2:篠崎英介氏のflickr→  http://www.flickr.com/photos/eisuke_shinozaki/

*3:後に、作者がこの写真の方が後であると教えてくれた。

公園ができるまで  *5/2リンクの不備を修正

 すぐれたドキュメンタリー(映像レポート)、『宮下公園 TOKYO/SHIBUYA(前・後編)』について。
 http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/351 (前後編併せて一時間ほどです。)


 ご覧のように、これほど分かり易い「危機」はない。これは民主主義の、理性と対話の、偽装であり、ゆえに犯罪的である。企業であれば、偽装問題を起こせば法の下に裁かれる。にもかかわらず、そうした法を定めた政治家であれば、あるいは政治家たちを抱き込めた企業であれば、なぜか不問に付されるのだとしたら、これは理不尽である。(渋谷区民は、リコールしたり選挙で落としたりすることで、政治家としての彼らの資質に対し判定を下すことが出来る。)
 公園を作るという決断および権力の行使は、その普遍性、あるいは正義の点で、検証されねばならない。我々は、『宮下公園 TOKYO/SHIBUYA』によって、作ることの正当性に関する政治的手続き(「ここにXを置くべきか」)について、検証のためのレポートを得た。一方で、むろん、さらに検証されねばならないのは、事物としての公園に関する制作上の決断および権力の行使(「ここに何が置かれるべきか=Xとは何か」)についてである。
 「ナイキ・パーク」の建築を担当するのは、アトリエ・ワンである。彼らへの公開質問状を作成した246表現者会議の人々同様、私もまた、建築家を詰問したり非難したりするのではなく、そのコンセプトの正当性について、これを知りたいと思うし、また、これについて議論するべきだと考える。( リンク アーティスト小川てつオ氏による、公開質問状およびレポート )


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C.U.T102

すもも画報

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argfm2010-04-23

ブックマークを追加しました。

「リテラエ・ウニヴェルサレス」と「ASLSP アスレスプ」の二つ。
でも、ブックマークを追加したら、ブックマーク表示で全部表示されなくなっちゃいました。なんで制限あるんだろ?クリックすると全部見ることはできるんですけどね。
う〜ん、「はてな」をいじるのは久しぶりなので、色々忘れてしまっていて、ですね。どうすんだったかなーっ。
(ちなみに今回の画像は前回と前々回のエントリに合わせて入れました。)

「X(dead letter)」について 2   4/21改

argfm2010-04-20

(つづき)
 「これを知らねばならない」という文の、「ねばならない」とは何か、これを分析せねばならないと、デリダは言う。「ねばならない」についての問いは、判断するとはどういうことか、ということであり、つまりこれは批評の問題でもあり制作の問題でもある。「ねばならない」には二重の意味がある。たとえば、単位を落とすからこの授業は出席せねばならないという時の「ねばならない」と、あの授業だけは是非とも出席せねばならないという時の「ねばならない」とでは、意味が異なる。ここで前者における出席とは贈与と返礼という交換原理に従った行為であり、自分の自由な時間を犠牲として差し出すことによって、単位という返礼を得ることを目的としている。一方、後者における出席は、自由な判断である(授業は利益を保証しているわけではないのだから)。前者は授業がないことを喜び、後者は授業がないことを残念がる。デリダのテクストにおいて、後者の「ねばならない」は、「負債なき義務」とも言われる。
 共同体の原理が互酬であるとは、よく言われることである。つまり、贈与と返礼がその原理である、と言われる。なるほど、借りを返さぬ者、返事をしない者、ミスを取り返さない者、恩知らずな者は、共同体のメンバーではいられない。共同体の交換原理に基づいて為される判断は、おしなべて負債の返却というエコノミーに基づいて執行され現実化される義務(規則)である。だがそもそも、こうした分析にあっては、贈与は返礼されるべきものであるということが前提とされている。贈与には支払いを受けるべき価値がある[そういうものだ]というわけである。つまり、支払いこそが贈与を贈与たらしめ、共同体を共同体として維持せしめる、ということになる。だからこそまた、共同体主義者たちは、共同体への支払いを義務化しようと躍起になる。(たとえば、国旗掲揚の義務化や、国歌斉唱の義務化が、そうである。義務化されればされるほど、なおのこと、国旗や国家への信を表明する機会は奪われるにもかかわらず。)
 一方、自由な判断としての「ねばならない」は、既存のコンテクスト(エコノミー)の維持と言うよりはその創出・刷新に関わる。この「ねばならない」は、返礼を強いることのない贈与であり、負債なき義務(義務なき義務)である。あるいは、規則や慣習(予め結果を計算することが可能なプログラム)に則ってはいないような交換である。一見、そんなことは頭でっかちなだけのキレイ事に過ぎないかのようにも思える、が、そもそも、経済的循環に回収されることのないこの「ねばならない」なしには、我々が自明なものとして享受していると信じている「人権」のようなものでさえ、その自由と自己決定という意味を失いかねない。(さもなくば「人権」には国家や企業にとっての資材―スタッフ―としての、あるいは国家や企業の存在意義を喧伝するための価値くらいしか残らないだろうし、あらゆる決定や判断は、利害関心に基づいた計算的選択でしかなくなってしまうだろう。)
 自由な判断としての「ねばならない」は、義務としての・計算可能性としての「ねばならない」に先立つ。なぜか。例を挙げよう。一見あり得ないようにも見えるが、とは言え、こうした返礼なき贈与を思い浮かべることは難しくない。それは我々の日常生活に深く入り込んでいるからである。返礼なき贈与とは、言いかえれば社会的つながりとしての「信」の条件である。たとえば、誰それを信じるということが可能であるためには、誰それが期待外れの、あるいは規則に従わない振る舞いによって、私の信を・私の信が見込む利益を、裏切るということが可能でなければならない。さもなくばそれは「信じる」とは言われ得ない。したがって、返礼と贈与の関係において、返礼なき贈与は返礼のある贈与に先立つ。(ついでに触れておくと、ゆえに、「信」とは、「妄想としての共同体」(?)を維持するための持参金(会費)という意味にのみ解されるべきではない。)
 例を続けよう。民主主義を論じた『ならず者たち』*1の中で、デリダは返礼なき贈与としての出来事をとりあげる。技術科学的発明は、出来事である。技術科学的な発明もまた、予測不可能なものへの「信」に基づいている。とは言え、ここで言う「信」とは、発明が必ず出来るという信念のことではない。発明とは様々な自然や事物、様々な生産諸力の組織を発明することなのだから、およそ発明なるものがあり得るためには、発明以前に予め計算可能な諸条件がそれを決定(自動的な産出)するのであってはならない、ということである。(「パラダイム」や「アーキテクチュア」のような。)つまり、自然、諸事物、生産諸力を組織することの間に、予測不可能な「信」がある。したがって、発明における「ねばならない」とは、目的(役)に還元されることのない、当の事物を当の事物たらしめるその不可分性(各一性)によって与えられる。発明とは、結局のところそれが何の役に立つのかを限定することは不可能なのであるからには、役に立つという以前に、まずは我々の元へとやってくるものであり、返礼を強いることのない贈与として現れる。出来事としての発明とは、利害関心を離れた自由な判断において組織される反覆可能性であり、「反復強迫」のようなもの、差出人不明で宛先も不明であるような、解消不可能な抵抗である。
 原因によっては解消されないような抵抗を分析せねばならない。私はこの主張について異存はない。なるほど、目的(利害関心)に作品を還元しないという所作は、むしろ、そうであるがゆえに、目的を書き込む余地を作り出す(感情移入、投影、我有化)。これは以前に何度か触れたハイデガーの問題でもあった。だが、ハイデガーが目的を消去するためには「枠」を持ち出す必要があったことを想起しておこう。「枠」とは確かに作品を起源から切断し、遍在的な吟味へと曝すための保護膜であるが、しかし同時に、それは作品の外から与えられる保護膜である。ゆえに[作品そのものではなく]保護者が、保証人が、責任者が問われるのである。したがって、作品が自ら「ねばならない」を示すためには、「枠」に頼ることなく、「枠」の機能を内在化させる必要があるだろう。(これは作者の課題であって、分析者はあずかり知らぬことであろう。)   (了)

「X(dead letter)」について

argfm2010-04-09

 そもそも分析とは何か。分析が分析であるためには、抵抗が先立たねばならない。抵抗なくして分析はなく、分析は自らへの抵抗との関係によってのみ、分析であり得る。そしてまた、分析とは抵抗の正当な主体(主権)を見出すことによって解決を、隠された意味と真理を与えるものでもある。分析は、抵抗を隠された真理の症候であると見なすことなくしては始まらない。ゆえに、分析の終わりは解決=回復であり治癒である。そうであるからには、抵抗そのものはやがては解消されねばならない、これが「分析」という概念の前提である。
 分析という概念、とくに精神分析の文脈にすすんで自らを位置づけるような分析概念は、芸術をめぐる言説にとって無縁ではない。数多く事例はあるが、すでに触れたものの中から選ぶとすれば、たとえばベンヤミンシュルレアリスムの本質を写真に求めた*1けれども、その理由とは、写真においては「人間によって意識を織り込まれた空間の代わりに、無意識が織り込まれた空間が立ち現れる」と、彼が考えていたからである。つまり、「人間によって意識を織り込まれた空間」への抵抗がそこに認められるからこそ、彼は写真を分析しようと欲し、また、自ら分析家を名乗るのである。写ろうとも写そうとも意図されていなかったにもかかわらず写っているもの、それが「抵抗」である。「人間の意識」ないし我々の「意識」を超える「意識」すなわち「無意識」、それが「抵抗」の背後にあるものである。ここにおいて、もはや芸術にとって問題となり得るのは、写真の「社会的機能」と彼が呼ぶところの、意味と真理である。すなわち、芸術家および芸術作品なるものはおしなべて媒介である限りにおいて意味を持ち、そこに観察される抵抗が解消される限りにおいて、いずれは解消されるべき存在である、ということになる。(たとえば、「文学」にとっては抵抗を感じるような「ケータイ小説」であっても、その「操作ログ」に着目するなら、それなりの意識が働いていることをそこに読み取ることができるのだ、というわけである。)分析・分析家にあって、自らは表現を作ることなく表現それ自体を捨象するという点では、これは翻訳行為にも似ている。(ちなみに、研究や批評を「制作」であると主張する向きもあろうから----結論をやや先走って述べることになるが----誤解のないように一言加えておけば、もし表現を作ると言うならば、それは「詩」ないし「文学作品」であるはずだろう。)
 ここで、「社会的機能」の分析であれ、精神分析であれ、そしてまた翻訳であれ、そうした活動を否定することに意味はない。本エントリーの目論見もまた、そこにあるのではない。ここで扱いたい問題は、しばしばあまりに安易に考えられすぎていると思われる、分析と芸術作品との関係、その差異である。
 分析に抵抗しなければならないのだろうか?『抵抗』*2の冒頭でデリダはそう問いかける。いったい、都市や作品や写真についての分析であれ、精神分析であれ、分析がなされ、また、そうした分析を我々が必要としているかのように見える時、にもかかわらず、なぜ、分析に抵抗しなければならないのか?ここで、『抵抗』というテクストのテクストとしての面白さは論の煩雑を避けるため素通りすることを容赦していただき、簡単に、「分析」によって失われるものが何であるのかを、見ておこう。
 抵抗が隠れた欲望であり、したがって解釈されるべきものであるという前提を引き受ける限りにおいて、ベンヤミンは正しくフロイトの継承者であるようにも見える。だが、こうした一般論に反して、『抵抗』において、デリダフロイト精神分析の中に、もう一つの、理論的な説明(分析)によっては解消することのできない別の抵抗が書かれていると、指摘する。この‘もう一つの抵抗’が「反復強迫」である。「反復強迫」は抵抗する、何よりもまず、分析による抵抗の解消に抵抗する。ここで「反復強迫」が分析によっては解消され得ないと言われる理由とは、「反復強迫」それ自体が分析と同様の構造を持つからである。「反復強迫」は、異なる場所および異なる経験における同一のものの回帰であるが、デリダに従えば、ゆえに、反復強迫は「古層回帰的運動」であると同時に、分解による破壊という運動である。これは、哲学的分析であれ精神分析であれ、両者において共有される分析という概念の二つのモチーフ、すなわち、単純なもの・分割不可能なもの(ana)への遡及的運動と、分解し(lysis)、解放し、最終的な完成を与える運動とに等しい。したがって、「反復強迫」を分析することは、分析するという行為そのものを分析することに等しいものになる。そのとき、分析は、抵抗を解消することによって初めて規定される己の統一性を保持することができない。その意味で、「反復強迫」は分析にとっての解消されるべき抵抗ではあり得ず、分析が分析として挫折する地点である。言いかえれば、「反復強迫」は、分析が分析として己を全うする時、その解決において、失われるものである。
 では、分析によって解消することのできない抵抗とはどのようなものなのか、簡単に見ておこう。「反復強迫」とは「反覆可能性」であり、その比喩として、宛先不明かつ差出人不明の「dead letter(配達不能郵便)」というモデルをデリダは用いている。想像してみよう、私は宛先不明であると同時に差出人へと差し戻すこともできない郵便物を読んでいるところである。何かが起きるはずであった。だが、そこに書かれていること、および起きるはずであったことについて何かをすることができるのはこの手紙を読んだ者だけである。そこに書かれてあることが誰の経験であるのかも特定できぬまま、またそうであるがゆえに(他者に帰されるものを保持するがゆえに)、私はその郵便物に対し、読んでしまったという経験(「読解可能性」・「反覆可能性」)に対し、或る義務感を覚えざるを得ないだろう。(それこそが「贈与」である。)つまり、分析によっては解消できない抵抗とは、「反復強迫」ないし「反覆可能性」そのものの、宛先不明であるがゆえの行為遂行性(発話内の拘束力)である。(つづく)

ガンバレ!!

私はテンション上げたい時はこの曲です。


Everyday in the week I'm in a different city
If I stay too long people try to pull me down
They talk about me like a dog
Talkin' about the clothes I wear
But they don't realise they're the ones who's square
Hey!
And that's why
You can't hold me down
I don't want to be down I gotta move
Hey
Stone free do what I please
Stone free to ride the breeze
Stone free I can't stay
I got to got to got to get away
Allright
Listen to this baby
A woman here a woman there try to keep me in a plastic cage
But they don't realise it's so easy to break
But sometimes I get a ha
Feel my heart kind of runnin' hot
That's when I've got to move before I get caught
And the is why, listen to me baby, you can't hold me down
I don't want to be tied down
I gotta be free
Owh!
I said
Stone free do what I please
Stone free to ride the breeze
Stone free I can't stay
Got to got to got to get away
Yeah ow!
Tear me loose baby
Yeah!
Stone free to ride on the breeze
Stone free do what I please
Stone free I can't stay
Stone free I got to I got to get away
Stone free go on down the highway
Stone free don't try to hold me back baby
Stone free oh yeah baby



映画『グラン・トリノ』

 敬愛する知人が「ひどい映画」と評していたので、この映画を観てみることにした。と言うのも、私の中でのクリント・イーストウッド作品に対する評価は必ずしも「ひどい」ものではなく、その評価は意外なものに思われたからだ。とは言え、もう少し詳しく言うと、私は毎年のように制作されているらしいイーストウッドの作品のほとんどを見ていない。わずかに、監督デビュー作である『許されざる者』、そして『バード』、『セロニアス・モンク ストレート・ノー・チェイサー』、『チェンジリング』を観ているくらいだ。(『硫黄島からの手紙』はテレビで観た。)そこから得られた印象は、台詞回しのカッコイイ映画、テンポが良く、どのカットもつねに能動的積極的であり、音楽のセンスもいい映画、無慈悲で残酷な映画、時として時代錯誤としか言いようのない美学が滑稽な映画、というものだった。つまり一言で言えば、ほとんど関心のらち外にある監督だったということだ。「ひどい」とも「すごい」とも思わない、そんな存在だ。けれど、『グラン・トリノ』を観て、やはりまじめに考えるべきかも知れないと、少し考えが変わった。「ひどい」という評価に肯けるものはあるが、少し詳しく見てみたい、ということだ。
 彼の映画には思想がある。彼はいわゆるリバタリアン自由主義者)であり、と同時に、共同体主義アメリカ合衆国建国の本質と見なすがゆえにアメリカ国家を否定はしないという思想の持ち主である。つまり、国家による暴力に対して敵意を燃やすと同時に、その理念をアメリカ合衆国開拓の、自立と自由と相互扶助という「起源」に求めるがゆえに政治家にだって平気で成る。「草の根右翼」などとも形容される。ジャズ、マカロニウエスタン、[自由主義としての]アメリカの理念、そういったものの混交から、イーストウッドは出来ている。
 一見、『グラン・トリノ*1は、イーストウッド特有の‘男の美学’*2であるとか、マイノリティーによる共同体とかいった主題についてのアンチノミーを扱うかのように見える。たとえば、ポーランド移民である主人公の老ウォルト・コワルスキーは同じく移民であるモン族の少年に「男とはどうあるべきか」を教えるが、同時に、マイノリティーであり「男」であるがゆえに社会になじめない[とされる]不良グループ(マフィア*3 )と抗争することになる。それぞれに独立して存在する共同体(文化・ルールの共有)の間を調停するような機関がないのである。これはつまり、「草の根右翼」とも言われる彼の思想に対しての自己批判を含んだ映画であるように思われる。
 では、イーストウッドは『グラン・トリノ』において、彼の美学なり政治的信条なりの展開ないし揚棄を得ているのだろうか。なるほど、この映画の中で、彼は事態の解決を法に求めており、その「法」とは、もはや共同体の[暗黙の・明文化されない]ルールではなく、美学でもない、民主的でいかなる主権も法の上に立つことはないような、誰の目にも明らかであるような形で執行される「法」である。ここで、毛嫌いしていたはずの警察を、国家による暴力の独占を、イーストウッドは最終的な解決の手段として要請している。だが、この映画の脚本で矛盾していることの一つは、なぜ最初から警察に訴えなかったのかという点であり、この矛盾こそが、『グラン・トリノ』という映画の中心がどこにあるのかを示しているように思われる。
 なぜ脚本上の無理を犯してまで、警察の介入はウォルトの死の後に、それに従って為されるのか。この順序は重要であり、ウォルトの死の意味に関わっている。ここでウォルトの死とは自決であり、その自決の理由とは、法によっては裁き得ず(というのも、その罪は国家が作り出したものであるから)、神(信仰)によっても救われないような罪の意識にある。ウォルトは自らが過去に抱えてしまった罪について、命令されたのではなく自ら進んでそうしたということが恐ろしいのだと告白する。したがって彼の自死・自決は、私という同一性が抱えた負債からの解放を意味している。自分で自分を裁くこと、つまり、ここでイーストウッドは相変わらず、法には関わらないような、法の上に立つ主権、至高の自由などの優越性を手放してはいないわけである。暴力の連鎖に対する解決を一般化された法に求めたとしても、映画の中心はそこにある。だから、なるほど思想上の展開は認められるとしても、その中心は頑ななまでに動いていないと言える。
 ウォルトの自由意志こそがすべての頂点にある。では、ウォルトを頂点とすることを正当化するものとは何か。負債の返却である。絶えず他者へと生成変化する自己を抹殺すること(自己の中の他者を自分ごと道連れに抹殺すること)によって、かろうじてウォルトは彼の思い描く「正しい自己」を自らの元へと取り戻す[と、おそらく彼は考えている。]。あるいは、汚染された自己を自ら廃棄することによって、理念としての「正しい自己」を永遠のものとする。(この考えは恐ろしい。)単なる廃棄ではない。負債(贈与)には返礼で答えねばならないというのは、まさに共同体の原理である。これこそが、負債の返却こそが、ウォルトの死の目的であり、「正義」である。
 だが、脚本上の無理はまさにこのことに起因している。すなわち、ウォルトの死に、ウォルトの「正義」と、共同体の保護という「正義」と、暴力の放棄という「正義」が重ね合わされている点に起因している。それぞれの「正義」は決して他の「正義」と交換可能ではないにも関わらず。言い換えれば、自死としてのウォルトの「正義」は、共同体の保護という「正義」によっても、暴力の放棄という「正義」によっても正当化され得ない、にも関わらず、あたかもすべての問題に対する解決が「自死」(負債の返却)という正義によって与えられるかのように描かれているというこの点にこそ、脚本上の無理を感じるのである。ゆえに、ラスト近く、ウォルトの葬儀において、神父はウォルトから生と死が何であるかを教わったと説くとき、私はこの映画の自惚れ・慢心を感じる。*4
 そもそもこの映画の魅力は、いかにして出自の同一性によって支えられるのではないような共同体を作ってゆくかというそのプロセスにある。このプロセスは、借りを返すというよりは(尤も、借りを返すという共同体の原理が強く印象づけられるように描かれているが)、‘冗談関係’を作ることや、贈与(教えることも含む)、文化への普遍的共感(料理の美味、シャーマン、「グラン・トリノ」)などに基づいている。すなわち、自己の中に他者を持つこと、他者の身体を分有すること、許す(赦す)こと。*5(他者を破壊しないことが、暴力の放棄である。)その意味では非常に優れた映画であるだけに、アンチノミーの「解決」によって全ての重心をそこからずらしてしまっている点が惜しまれる。

*1:ストーリーを書いていると長くなるので、ストーリーについてはネットで検索してください。オフィシャルサイト → http://wwws.warnerbros.co.jp/grantorino/#/top

*2:必ずしも生物学的性差を意味しない。たとえば、『チェンジリング』の主人公は女性であるが、イーストウッドの美学に基づいた行動原理を持っている。

*3:という解釈自体が紋切り型であり、「ひどい」ものであるが、そう見える。

*4:そこにイーストウッド自身の、彼に対する負債の返却を重ね合わせることができるとなると、なおのこと。

*5:それ自体が正義であるわけではないが、そのことなしに正義は可能ではない。