「X(dead letter)」について 2   4/21改

argfm2010-04-20

(つづき)
 「これを知らねばならない」という文の、「ねばならない」とは何か、これを分析せねばならないと、デリダは言う。「ねばならない」についての問いは、判断するとはどういうことか、ということであり、つまりこれは批評の問題でもあり制作の問題でもある。「ねばならない」には二重の意味がある。たとえば、単位を落とすからこの授業は出席せねばならないという時の「ねばならない」と、あの授業だけは是非とも出席せねばならないという時の「ねばならない」とでは、意味が異なる。ここで前者における出席とは贈与と返礼という交換原理に従った行為であり、自分の自由な時間を犠牲として差し出すことによって、単位という返礼を得ることを目的としている。一方、後者における出席は、自由な判断である(授業は利益を保証しているわけではないのだから)。前者は授業がないことを喜び、後者は授業がないことを残念がる。デリダのテクストにおいて、後者の「ねばならない」は、「負債なき義務」とも言われる。
 共同体の原理が互酬であるとは、よく言われることである。つまり、贈与と返礼がその原理である、と言われる。なるほど、借りを返さぬ者、返事をしない者、ミスを取り返さない者、恩知らずな者は、共同体のメンバーではいられない。共同体の交換原理に基づいて為される判断は、おしなべて負債の返却というエコノミーに基づいて執行され現実化される義務(規則)である。だがそもそも、こうした分析にあっては、贈与は返礼されるべきものであるということが前提とされている。贈与には支払いを受けるべき価値がある[そういうものだ]というわけである。つまり、支払いこそが贈与を贈与たらしめ、共同体を共同体として維持せしめる、ということになる。だからこそまた、共同体主義者たちは、共同体への支払いを義務化しようと躍起になる。(たとえば、国旗掲揚の義務化や、国歌斉唱の義務化が、そうである。義務化されればされるほど、なおのこと、国旗や国家への信を表明する機会は奪われるにもかかわらず。)
 一方、自由な判断としての「ねばならない」は、既存のコンテクスト(エコノミー)の維持と言うよりはその創出・刷新に関わる。この「ねばならない」は、返礼を強いることのない贈与であり、負債なき義務(義務なき義務)である。あるいは、規則や慣習(予め結果を計算することが可能なプログラム)に則ってはいないような交換である。一見、そんなことは頭でっかちなだけのキレイ事に過ぎないかのようにも思える、が、そもそも、経済的循環に回収されることのないこの「ねばならない」なしには、我々が自明なものとして享受していると信じている「人権」のようなものでさえ、その自由と自己決定という意味を失いかねない。(さもなくば「人権」には国家や企業にとっての資材―スタッフ―としての、あるいは国家や企業の存在意義を喧伝するための価値くらいしか残らないだろうし、あらゆる決定や判断は、利害関心に基づいた計算的選択でしかなくなってしまうだろう。)
 自由な判断としての「ねばならない」は、義務としての・計算可能性としての「ねばならない」に先立つ。なぜか。例を挙げよう。一見あり得ないようにも見えるが、とは言え、こうした返礼なき贈与を思い浮かべることは難しくない。それは我々の日常生活に深く入り込んでいるからである。返礼なき贈与とは、言いかえれば社会的つながりとしての「信」の条件である。たとえば、誰それを信じるということが可能であるためには、誰それが期待外れの、あるいは規則に従わない振る舞いによって、私の信を・私の信が見込む利益を、裏切るということが可能でなければならない。さもなくばそれは「信じる」とは言われ得ない。したがって、返礼と贈与の関係において、返礼なき贈与は返礼のある贈与に先立つ。(ついでに触れておくと、ゆえに、「信」とは、「妄想としての共同体」(?)を維持するための持参金(会費)という意味にのみ解されるべきではない。)
 例を続けよう。民主主義を論じた『ならず者たち』*1の中で、デリダは返礼なき贈与としての出来事をとりあげる。技術科学的発明は、出来事である。技術科学的な発明もまた、予測不可能なものへの「信」に基づいている。とは言え、ここで言う「信」とは、発明が必ず出来るという信念のことではない。発明とは様々な自然や事物、様々な生産諸力の組織を発明することなのだから、およそ発明なるものがあり得るためには、発明以前に予め計算可能な諸条件がそれを決定(自動的な産出)するのであってはならない、ということである。(「パラダイム」や「アーキテクチュア」のような。)つまり、自然、諸事物、生産諸力を組織することの間に、予測不可能な「信」がある。したがって、発明における「ねばならない」とは、目的(役)に還元されることのない、当の事物を当の事物たらしめるその不可分性(各一性)によって与えられる。発明とは、結局のところそれが何の役に立つのかを限定することは不可能なのであるからには、役に立つという以前に、まずは我々の元へとやってくるものであり、返礼を強いることのない贈与として現れる。出来事としての発明とは、利害関心を離れた自由な判断において組織される反覆可能性であり、「反復強迫」のようなもの、差出人不明で宛先も不明であるような、解消不可能な抵抗である。
 原因によっては解消されないような抵抗を分析せねばならない。私はこの主張について異存はない。なるほど、目的(利害関心)に作品を還元しないという所作は、むしろ、そうであるがゆえに、目的を書き込む余地を作り出す(感情移入、投影、我有化)。これは以前に何度か触れたハイデガーの問題でもあった。だが、ハイデガーが目的を消去するためには「枠」を持ち出す必要があったことを想起しておこう。「枠」とは確かに作品を起源から切断し、遍在的な吟味へと曝すための保護膜であるが、しかし同時に、それは作品の外から与えられる保護膜である。ゆえに[作品そのものではなく]保護者が、保証人が、責任者が問われるのである。したがって、作品が自ら「ねばならない」を示すためには、「枠」に頼ることなく、「枠」の機能を内在化させる必要があるだろう。(これは作者の課題であって、分析者はあずかり知らぬことであろう。)   (了)