「X(dead letter)」について

argfm2010-04-09

 そもそも分析とは何か。分析が分析であるためには、抵抗が先立たねばならない。抵抗なくして分析はなく、分析は自らへの抵抗との関係によってのみ、分析であり得る。そしてまた、分析とは抵抗の正当な主体(主権)を見出すことによって解決を、隠された意味と真理を与えるものでもある。分析は、抵抗を隠された真理の症候であると見なすことなくしては始まらない。ゆえに、分析の終わりは解決=回復であり治癒である。そうであるからには、抵抗そのものはやがては解消されねばならない、これが「分析」という概念の前提である。
 分析という概念、とくに精神分析の文脈にすすんで自らを位置づけるような分析概念は、芸術をめぐる言説にとって無縁ではない。数多く事例はあるが、すでに触れたものの中から選ぶとすれば、たとえばベンヤミンシュルレアリスムの本質を写真に求めた*1けれども、その理由とは、写真においては「人間によって意識を織り込まれた空間の代わりに、無意識が織り込まれた空間が立ち現れる」と、彼が考えていたからである。つまり、「人間によって意識を織り込まれた空間」への抵抗がそこに認められるからこそ、彼は写真を分析しようと欲し、また、自ら分析家を名乗るのである。写ろうとも写そうとも意図されていなかったにもかかわらず写っているもの、それが「抵抗」である。「人間の意識」ないし我々の「意識」を超える「意識」すなわち「無意識」、それが「抵抗」の背後にあるものである。ここにおいて、もはや芸術にとって問題となり得るのは、写真の「社会的機能」と彼が呼ぶところの、意味と真理である。すなわち、芸術家および芸術作品なるものはおしなべて媒介である限りにおいて意味を持ち、そこに観察される抵抗が解消される限りにおいて、いずれは解消されるべき存在である、ということになる。(たとえば、「文学」にとっては抵抗を感じるような「ケータイ小説」であっても、その「操作ログ」に着目するなら、それなりの意識が働いていることをそこに読み取ることができるのだ、というわけである。)分析・分析家にあって、自らは表現を作ることなく表現それ自体を捨象するという点では、これは翻訳行為にも似ている。(ちなみに、研究や批評を「制作」であると主張する向きもあろうから----結論をやや先走って述べることになるが----誤解のないように一言加えておけば、もし表現を作ると言うならば、それは「詩」ないし「文学作品」であるはずだろう。)
 ここで、「社会的機能」の分析であれ、精神分析であれ、そしてまた翻訳であれ、そうした活動を否定することに意味はない。本エントリーの目論見もまた、そこにあるのではない。ここで扱いたい問題は、しばしばあまりに安易に考えられすぎていると思われる、分析と芸術作品との関係、その差異である。
 分析に抵抗しなければならないのだろうか?『抵抗』*2の冒頭でデリダはそう問いかける。いったい、都市や作品や写真についての分析であれ、精神分析であれ、分析がなされ、また、そうした分析を我々が必要としているかのように見える時、にもかかわらず、なぜ、分析に抵抗しなければならないのか?ここで、『抵抗』というテクストのテクストとしての面白さは論の煩雑を避けるため素通りすることを容赦していただき、簡単に、「分析」によって失われるものが何であるのかを、見ておこう。
 抵抗が隠れた欲望であり、したがって解釈されるべきものであるという前提を引き受ける限りにおいて、ベンヤミンは正しくフロイトの継承者であるようにも見える。だが、こうした一般論に反して、『抵抗』において、デリダフロイト精神分析の中に、もう一つの、理論的な説明(分析)によっては解消することのできない別の抵抗が書かれていると、指摘する。この‘もう一つの抵抗’が「反復強迫」である。「反復強迫」は抵抗する、何よりもまず、分析による抵抗の解消に抵抗する。ここで「反復強迫」が分析によっては解消され得ないと言われる理由とは、「反復強迫」それ自体が分析と同様の構造を持つからである。「反復強迫」は、異なる場所および異なる経験における同一のものの回帰であるが、デリダに従えば、ゆえに、反復強迫は「古層回帰的運動」であると同時に、分解による破壊という運動である。これは、哲学的分析であれ精神分析であれ、両者において共有される分析という概念の二つのモチーフ、すなわち、単純なもの・分割不可能なもの(ana)への遡及的運動と、分解し(lysis)、解放し、最終的な完成を与える運動とに等しい。したがって、「反復強迫」を分析することは、分析するという行為そのものを分析することに等しいものになる。そのとき、分析は、抵抗を解消することによって初めて規定される己の統一性を保持することができない。その意味で、「反復強迫」は分析にとっての解消されるべき抵抗ではあり得ず、分析が分析として挫折する地点である。言いかえれば、「反復強迫」は、分析が分析として己を全うする時、その解決において、失われるものである。
 では、分析によって解消することのできない抵抗とはどのようなものなのか、簡単に見ておこう。「反復強迫」とは「反覆可能性」であり、その比喩として、宛先不明かつ差出人不明の「dead letter(配達不能郵便)」というモデルをデリダは用いている。想像してみよう、私は宛先不明であると同時に差出人へと差し戻すこともできない郵便物を読んでいるところである。何かが起きるはずであった。だが、そこに書かれていること、および起きるはずであったことについて何かをすることができるのはこの手紙を読んだ者だけである。そこに書かれてあることが誰の経験であるのかも特定できぬまま、またそうであるがゆえに(他者に帰されるものを保持するがゆえに)、私はその郵便物に対し、読んでしまったという経験(「読解可能性」・「反覆可能性」)に対し、或る義務感を覚えざるを得ないだろう。(それこそが「贈与」である。)つまり、分析によっては解消できない抵抗とは、「反復強迫」ないし「反覆可能性」そのものの、宛先不明であるがゆえの行為遂行性(発話内の拘束力)である。(つづく)