パレルゴン(12)

今でもアニマルプラネットは大好きです

(つづき)
 『判断力批判』の難点は、単に著者の意見や考えが変わったというだけではない、一連の矛盾が『判断力批判』の論理にとって本質的なものであるということにある。おそらく誰もがそう感じるだろうように、『判断力批判』における矛盾はいたるところにあり、なるほどすべてをまじめに受け取ることは難しい。もし矛盾にこだわらずに部分を強調するならば、読み方によっていくらでも異なる『判断力批判』を引き出すこともできるだろう。そうした読解が有用なこともある。‘あなたが読むカント’というわけだが、しかし、こうした我有化(私有化)のための読書は、その読解をテクストに帰することによってテクストの機能を抹消してしまう。抹消されたテクストは、にもかかわらず、私有化された読解において、私有化された読解を超えて、良くも悪くも機能し得る。テクストの読み方自体をテクストに書き込むことはできないのだし、ゆえに、テクストそれ自体を読解の次元において私有化することはそもそも不可能であるからだ。(テクストそのものおよび、テクストが読まれたという経験そのものをすべて抹消するのでない限り。)したがって、まずはテクストがどのように機能するのかを見定める必要がある。そのためにデリダによる批判は有用である。とは言え、ここではデリダの議論をすべてカバーすることはしない。デリダの議論を歪曲することは避けるよう努めるが、さしあたっての問題は、「いかなる基準が、真正の文化的あるいは芸術的産物を公認するのか?」および、この問題をどう考えるか、だからである。
 趣味判断と論理的判断は異なるという言明と同時になされる、趣味判断への論理的判断の適用という矛盾において、「パレルゴンの構造」が作動していると、デリダは分析する。パレルゴンとは何か。デリダは次のように書いている。「パレルゴンは、作品(エルゴン[ergon])でもなく、作品の外にあるものでもなく、内部でも外部でもなく、上部でも下部でもなく、あらゆる対立を掻き乱しながら、しかも規定されぬままにあるわけではなく、そして作品に場所を与える[作品を生み出す]ものである。*1」(「パレルゴンはまた、例外的なもの、突飛なもの、異常なもの、を意味する。」)では、その働きとはどのようなものなのか。デリダによれば、パレルゴンはある余分なもの(外的なもの)を本来の分野に書き込むが、しかしそれは、「本来の分野」に欠如が、おのれをおのれが立たせられないという無力が、認められる限りにおいてである。『判断力批判』を一枚の絵画作品であるとすると、他の『批判』から持ち込まれた〈パレルゴン=枠〉(『純粋理性批判』におけるカテゴリー →(イ)) は、その形式的な美に奉仕するパレルゴンの役割を演じている。『判断力批判』における「美の分析論」という章は、『純粋理性批判』から持ち込まれた四つのカテゴリーに即して分類されているが、このカテゴリー=枠こそが、『判断力批判』において形式と質料の二元論を、内と外との対立を、すなわち「おのれの領域を規定する固有の対象分野」を規定している。「美の分析論」は、概念の分析論と判断力に関する学説という枠によって労働している。だが、同時に趣味の活動における概念の不在(「目的なき」)を示す以上は、枠(概念の分析論)による労働を取り消すのである。そう、デリダは言う。このことは、趣味判断もまた論理的な構造を持つということを意味しているわけではない。そうではなく、『判断力批判』において、趣味判断(目的なき合目的性)は他と区別される時間と空間を形成しうるような論理的構造を(それが物質的な継起的順序であれ論理的必然であれ)持つものとして考えられてはいない、ということである。つまり、趣味判断に「自己固有の適法性」はない。対象が認識され得ない限りにおいて働く構想力の‘自由な戯れ’(混乱)にあって、奇抜な形態を欲しいままにする主観が辿ってゆく能動性の道程は、MOMAの事例において展覧会の組織者達が辿ったそれでもあるだろう。だが、彼らが「快」の感情を抱いていたかどうかは疑問である。そうした戯れが、にもかかわらず普遍的な合意を要請しうるとしたら、それが主観的表象の外部(「自然」、「悟性」)と「偶然にも」一致するからに他ならない。そこにあるのは、美ではなく、なんだかモヤモヤした感情を上手く言いつくろってくれるものを見つけた、という「適意」ではないだろうか。だが、主観的表象が自らの自律性(自発性、オリジナリティ)を主張する以上は、それは外部による労働を取り消すのである。*2そう考えを進めてくれば、これは単にMOMAの件を笑って済ませられるような事態ではない。
 「美とは何か」という問いに答えを見つけるために足早に立ち去りたい誘惑に耐え、カント自らによる事例を用いた説明を見てみることにする。カントは野生のチューリップをとりあげる。カントによれば、この野生のチューリップという対象についての主観的表象は一つの目的を目指しているように思われ、‘あたかも’ある意図に応じたものである‘かのように’思われるが、しかし、その目的は主観においては欠如している。野生の美(という形態)においてこそ、「目的なし」「概念なし」という無知は顕わなものとなるのである。その理由については再々述べるまでもないであろう。カントにとって、美を生ぜしめるのは野生のチューリップでなければならない。なぜならば、もしそれが人工の、野生のものにうり二つのよくできた模造品であったならば、自然への関心が失われるからである。だが、「目的なき合目的性」が「美」であるとするならば、たとえば発掘された道具の断片は、‘トマソン’はどうなのかという反論が想定されうる。この反論はカント自らが想定したものである。これに対し、カントは次のように答えている。(つづく)


→(イ)
 美の分析論における、カテゴリーの枠組み
  1 質  ・・・没関心的な適意の対象(が、美しい)--(度)
  2 量  ・・・概念なしに普遍的に気に入る(同上)--(数)
  3 諸目的・・・目的なき合目的性(同上)--(時間順序、継起的把握)
  4 様相 ・・・概念なしの、必然的な適意の対象--(時間総括、同時的総括)

*1:『絵画における真理』

*2:対象がない以上は、それを受容史などと呼び直すのは見苦しいだけであろう。