自分がやろうと思わなかったことをしてしまったということ、言おうと思わなかったことを言ってしまったということ、すなわち選ぼうと思わなかったものを選んでしまったということ、そういったことどもに対して、ではどのように振る舞うのかということは、そうした事態が誰かの曲解や悪意によるのではなく行為の必然的な帰結であるのなら、あるいはそう主張されるのであれば、私が自らの行為を(選択の理由を、ではなく)批判的に考えるための、あるいは異なった仕方で考えるための契機ではないだろうか。(必然的で不可避的な帰結という点においてこそ、何にでもどのようなものにでも答えねばならないという強迫観念は斥けられる。--それがあるなら。)こうした契機は、ネガティヴなニュアンスにおいてのみ捉えられるべきではあるまい。*1
 ある作品についてどのように評価を下すかは単純ではない。直観的にこれは面白い(面白そうだ)と思うものもあれば、時間をかけてようやっと面白さの見えてくるものもある。逆に、つまらないものに思えてくるものもある。(尤も、私個人について言えば、最近は判断の揺らぎは少なくなってきている。悪い傾向かも知れないし、良い傾向かも知れない。)いずれにしても、私の興味を惹きつけ続けるのは、単なる趣味ではない。少なくとも、そればかりであるとは思われない。趣味すなわち主観的表象における整合性(自らの選択に対するつじつま合わせの理屈づけ)でも、趣味すなわち好き嫌い(偏食)でもなく、自らが帰属するあるいは帰属せんと望む階級ないしトライブを示す趣味でもなく、私が惹かれるのは、その作品を可能にするプロセス、その哲学、その知識、その認識、そのセンス、その技術、その生成するプロセス、作品における到来、などなどである。一言で言えば、私は学ぶために(驚嘆の念を持って、あるいは苦々しく思いつつ)分析する。
 作品はどのようなジャンルのものであれ、分析して初めて分かるということがある。さもなくば人は分析などしないはずである。だが、そうして得られた構造なりなんなりは、果たして直観的な把握にどれほどの影響を与えているのか。影響を与えているとしたらその精度はどれほどのものなのか。だが、そもそも私は、分析しようとさせるものが作品になければ、分析などしない。何が私に分析しようとさせるのか、そのことについて、私は書いたはずである。何か、まったく私には思いもよらぬことをしてしまっているのかも知れないが。*2


こちらもお読みください。→http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080305

*1:ちなみに、よく知られているように、デリダが「責任=応答可能性」として言っているのは、「今ここ」に現前していない他者たち(死者であろうと未だ生まれていない者であろうと)の尊重を原理として持たぬいかなる〈倫理=政治学〉もない、ということである。

*2:だが、言うまでもなく、誰だってそうするように、行為の帰結ではないような不当な曲解には、特に私のいない場で為される曲解には、私の目が黒いうちは抗議する。