柳宗悦と芹沢硑介 その1

argfm2011-12-14

 我が家に置かれている茶箪笥には、傷を隠すためか芹沢硑介(1895〜1984)のカレンダーが引き戸の矩形に合わせてトリミングされ、貼り付けてある。洋風とも和風とも付かぬ、いつの時代に作られたものかも曖昧であるようなかわいらしいデザインのカレンダーである。芹沢のカレンダーは終戦間もない1946年からバブル到来の1984年まで、時には一万部超刷られることもあったという人気商品だったらしい。芹沢硑介は、名前は知らなくとも彼のデザインしたものなら誰でもどこかで一度くらいは目にしたことがあるという、まあデザインってのはそういうもんじゃねえのというツッコミはともかく、国外にもその名を知られた有名な工芸家・デザイナーである。バルテュスと友だち。ちなみに、女優のイザベル・アジャーニは私の生涯の画家はバルテュスですとか言っている。そのアジャーニが映画デビューした年に生まれた私の誕生日を祝って、たまたまやっていた芹沢硑介の展覧会へと足を運び、そのついでと言ってはなんだけれどもしばらく忘れていた柳宗悦(1889〜1961)のことを思い出したりした。芹沢は柳を生涯の師とまで呼んでいたらしいが、その芹沢と柳との関係とはどのようなものであったのか?
 柳宗悦と言えば民藝と呼ばれる美術工芸の運動を指導した理論家にして宗教家であるが、その理論というのが、まずは簡単に言って済ませれば、無名の職人がなーんも考えずに反復作業に身を任せて作ってりゃイイモンができんだよ、というものである。これを「他力の美」と言う。単純化がひどすぎる、言葉遣いを敢えてぞんざいにする点に敬意の無さが読み取れる、などと怒り出す人がないとも限らないから後でもう少し詳しく説明する。要するにここで言っておきたいのは、匿名の作者による作為を排した制作を奨励した柳宗悦と、有名作家で工夫を凝らす工芸家芹沢硑介との関係がどんなものだったのか、そのことを気にかけてこなかった自分に気がつき、二人の関係を詳しく知りたくなった、ということである。なにせ芹沢は柳の論文『工芸の道』を読んで「工芸の本道初めて眼前に拓けし思いあり」とまで感動し、その後も柳を生涯唯一の師として尊敬していたのであり、柳は柳で芹沢を「芹沢君のような人に出逢ったことをいつも生涯での有り難い出来事だと思っている」とまで絶賛しているのである。
 まず柳の理論を見ていこう。話の前提として、柳はどんな文脈で民藝(道具)を考えていたのかを知る必要がある。そこで道具についてである。他の動物に比べると、人間は道具や技術に関して、より着脱の自由が利く。人間は提灯アンコウのように獲物を引き寄せる道具を頭にぶら下げて生まれて来たりはしない。人間の幼児が狼に育てられることが不可能であることの理由は、両者の世界があまりに違いすぎるから、すなわち、幼児の身体には狼のような早さで移動できる脚も、狼同様の食事をとるための牙も備わっていないからであり、極寒の地にも耐え得る毛並みが生えてくることなど望むべくもないからである。人間以外の動物が本能に導かれて環世界に生きることができると言われるのは、彼らの身体がそのまま道具でもあるからだけれども、人間の場合は必ずしもそうではない。とすると、動物の環世界にあたるようなもの、すなわち生活(道具連関)を、人間は自ら作り出さねばならない。道具を作ることは道具を作るための素材を作る(得る)こと、労働を作ること、生活を作ることと不可分である。さて、こうした議論を前提として、柳宗悦の民藝理論において重要な点は要するに、道具を、その作られ方の正しさにおいて評価した点にある。ここで作られ方の正しさを評価するとは、風土(環境)との調和や素材を用いる際の合理性などにおいて、今日の諸問題を引き起こしている原因を予め(能動的に)拒否するものとして、その価値を見定めるということであり、ゆえに、民藝運動は正しい生活(および正しい労働・正しい組織=「相愛による団結」)の創出と不可分である、ということになる。器に施されている模様といえど例外ではない、「原料をただの物資とのみ思ってはならぬ。そこには自然の意志の現れがある。その意志は、いかなる形をいかなる模様を有つべきかを吾々に命じる。誰もこの自然の意志に叛いて、よき器を作ることは出来ぬ。」*1のである。ここで柳が言及している「模様」というのは、たとえばスリップウェアや油滴、刷毛目といった、物性によって生まれる模様のことである。宗教家柳にとって「物性」とは「仏性」に他なるまい。柳は正しく作られたモノの有り様を「美」と呼んだ。が、そうであるならば、柳の議論は広くエコロジック&エコノミック(節約・省エネ・合理性)な話であって、何も狭く工芸にこだわる必要はないわけであるが・・・。
 さて、けれど、よくよく考えると、「正しく作られたモノ」を「美」と呼ぶのはちょっと飛躍しているように思われる。「正しく」作られてはいるが美しくないモノはたくさんあるからだ。(たとえば有機農業のための肥料。)正しく作られており、かつ、美しいというのなら分かる。けれど、そういうことなら、「美」とは何かを別の話として説明するのでなければならないだろうが、そうはならない。柳先生はずばり、「工芸の美は奉仕の美」と言い切っておられる。「こうげい」にも「ほうし」にも「び」は含まれていないではないか!という伝わりにくかろうジョークを思いついたので、ここに記して先に進む。分かりにくいのは、「美」とはどういうことか、「正しく作る」とはどういうことか、である。
 正しく作るとはどういうことか。柳にとって正しく作るとは、技術や自然の作用に制作者が身を差し出すことでその自我が消え去ることを意味している。自然環境や物性が人間の労働を主宰することを旨とし、自然から与えられた原料を廃棄物も含め十全かつ合理的に活用し活かすこと、「用」を見出すこと、すなわち経済合理性と機能性の追及、それが彼の言う「正しさ」である。柳が「無駄を排する」とか「節約」というような「商業主義」と区別の付かない見解を述べる一方で、にもかかわらず、「商業主義」と一線を画す道徳的な主張として民藝運動を誇ることができたのは、正しい用途への私心なき奉仕という観念に彼が魅了されていたがゆえにである。彼の言う道徳が、まあしょせんは、ムダをしない、自慢しない、慎み深くチャラくない、といった程度の、妬みを回避するための処世術に過ぎなかったとしても、である。これを「用の美」と言う。*2自然に則した合理的で正しい生産の有りように私利私欲なく従事する者(匿名性)は道徳的に正しい。「正しく作る」ことの「正しさ」とは、かくもダブルミーニングである。ここで、ゆえに柳は、技術の運用こそが人間を守護するという意味において、制作者自身は制作において「無意識」でなければならない、と言う*3。一理ある。誰でも、タイピングは慣れれば「無意識」に打てるし、技術の習得とはそういうことである。トリプルアクセルやコールマンを誰しもが決めることができるのかはともかく、つまりは慣れた手つきの見事さ=美しさ、というわけである。人間の身体は複雑だから、そこにはちょっとした個性(偏向)さえ生じる余地があるだろう。匿名性と個性との間の矛盾はこうして解決される。‘批評’の生じる余地があるわけである。ともあれ、こうして民藝において、合理性と道徳と美が結びつく。
 ・・・さて、柳の理論は正しいか?どうだろうか?よくよく見ると、柳の理論には階層構造があることに気付く。自然の合理性、労働の機能性、美、である。これらは順に、前の物から次の物が導き出されるように並べられているわけだけれども、その逆はない。美から自然の合理性が導き出されるわけでもないから、循環構造を成しているわけでもない。つまりは「美」を目指して組織された階層構造なのだと言える。「美の王国」。ここで、彼が使っていた「無意識」の語に注目すると、この階層構造の怪しげなところが見えてくるのだけれども、と同時に、匿名性を賞揚した柳が、なぜ芹沢硑介や濱田庄司のような作家たちを擁護し得たのかも、分かってくる。
 柳は言う。「凡ての職人をして意識的作家にしようとするなら、仕事はたちまち不可能に陥るでしょう。それは凡ての人間に善人足ることを強要するのと等しいからです。」*4 民藝とは自動的な産出であり、自由意志の外に、善悪の彼岸にあるものだ。柳の言う「無意識」(「自然」)とはそういう意味でもあり、ここに紹介した文章で言われているのは、「職人」は善悪の判断が付かない、ということである。「いわんや悪人をや」。では一体、「職人」が無意識のうちに身を任せている労働が「正しい」ものであることを、‘自然人’たる「職人」はどうやって知ることができるのか?柳の思想が就学率や識字率を高めようという方向に向かわないことだけは確かだけれども、柳の答えは、自然への働きかけや技術が正しいものであるか否かは、善悪の区別が付き、「美しい作物」が生まれる理由を看取することのできる「意識」が、すなわち「指導者(批評家)」および「意識的作家」が決めるのだ、というものである。つまり、「職人」たちおよび社会の未来を、決定し切り開く可能性(能力、権力)、および、美を美と呼び社会に告知する権利を手にしているのは指導者と作家のみである、ということだ。ブタもおだてりゃ木に登る作戦。ネオリベ教育委員会。権力の支配を排する「相愛による団結」はどこに行った?という感じではある。
 柳の理論で行くなら、正しくないもの(意識)が正しいもの(無意識)を正しく導くのだということになるだろう。これが先の階層構造の意味である。理屈はなんだかよく分からないがしかしとりあえず、芹沢硑介のような「作家」を擁護することと民藝としての「無意識」による産物を擁護することとの間の矛盾がこうして‘止揚’されたことは分かった。作家は民藝の代表者であり、頭脳であり、指導者、なのである。柳の民藝(「職人」)に自己決定の自由はない(つまり、歴史もなく、変化の自由もない、ということだ)。
 だが、人間の技術による産物の多くが自然界や動物による産物の模倣であることにも似て、民藝の作家-職人-自然という階層構造にあって、思考し制作し発明しているのは、すなわち立法の自由と必然を手にしているのは、「職人」および「自然」の方である。それを美であるとか醜であるとか批評するのは批評家柳の勝手(意識)であり、善人だとか悪人だとか慮るのは宗教家柳の勝手(意識)に過ぎない。作家もまた、しょせんは柳同様のポジションを占めているに過ぎない存在になる。*5私の疑問は解消されたけれど、単なる鑑賞を離れて生活環境をも含めた生産様式のあり方に注目すべきだと唱えた柳の民芸理論も、これでは少々減点である。法の審級が間違っているからだ。だが、そもそも、柳の美術批評で面白くなるのは、「無名」の「職人」の技をその発明工夫において評価する時である。(だから矛盾している。)そしてこの見方こそが、彼にとって、目利きへの社会的世俗的な「信用」によって成り立つ「茶道」的美術批評に対抗し得る最大の強味であったはずなのだ。
 ところで、では、美はどうなるだろうか。美や芸術を合理性に還元して正当化しようとする柳の一元化理論に無理があることは分かった。相容れないわけではないにしても、それらの間には未だ深〜い溝があるようだ。(つづく)

*1:『雑器の美』

*2:柳の論理において、アブソープション(没入)と私心なき奉仕との区別は為されていないが、いずれにせよ、ある行為を「用の美」と評価する権利は、理論上これが行為者による美を目的とした意図的な反復を禁じている以上は、それを観察する者にのみ与えられているのであり、つまるところ「用の美」がそれとして存在し得るのは観察し報告する言説(語り)の中においてでしかないということになる。語られる対象として語りの中にあるときのみ、それは「美」なのである。カントも陥った「天才」のパラドックスであるが、後述するように、問題はそこにある。

*3:『民藝の趣旨』

*4:『民藝の趣旨』

*5:作家は職人の技を謙虚に学んだ・・などといった、およそ謙虚さを欠いた表現が用いられたりする。