ガストン 〜珠玉のフィリップス・コレクション

argfm2011-11-02

●『Native`s Return(帰郷)』(1957) フィリップ・ガストン(1913-80)


 もともとはピカソメキシコ壁画運動(オロスコやシケイロス)、デ・キリコなどの影響の下に絵画を制作していたヒト。初期の頃から既にKKKを画面に登場させている。抽象表現主義を経由したのち、具象絵画に戻る。当時抽象表現主義からの「転向」は簡単ではなかったようで、作品以外の何ものをも目指さない(純粋性)、作品それ自体を目的とした(自己決定)芸術、すなわち自己完結した自由(自律性)の確立を目指す抽象表現主義に対し、作品は不純なものであり自己完結などしないと反論を展開。鑑賞者が持ち込む文脈を必要とする不確定なイメージを扱う方向へ舵を切る。いずれにせよ、こうした議論は、ヘーゲル弁証法とこれに対して批判したり脱構築を企てたりした哲学者たちとの議論を彷彿とさせる。抽象表現主義のリソースであったモンドリアンカンディンスキーがそもそもドイツ観念論からかなり理論を拝借しているので、こうなるのも致し方ないが、彼らが何を目的に争っているかと言えば、自由(自己決定の自由)と普遍性(平等)である。つまり、主権(唯一性)と民主制(無差別性)をどう考えるかということであり、つまり、政治哲学である。以前、何かの本でジャーナリストの筑紫哲也が、芸術の話を聞けると思っていたのにアメリカの美術家たちは政治の話しかしないと言っていたように記憶するけれども(彼が言っているのはメジャーなギャラリーに集まってくるような美術家たちのことである)、そもそも、彼らの現在はそうしたことにある。
 こうした議論にはいくつもの作品によって既に答えは出ているようにも思うのだが、文脈を変えれば複雑な話にもなる。ロジックとしてはあまり刺激が無くとも、議論が召喚せざるを得ないさまざまな事象に出会えることは面白い。
 『Native`s Return』。印象派を彷彿とさせる、微妙な色彩とストローク。ドローイングなどを見るとあからさまだけれども、キュビスムシュルレアリスム的な、面によって構成された〈立体=オブジェクト〉を一背景の上に構成した画面である。一見形態など無いように見えるけれども、描かれているのは形態である。錦糸カボチャのような〈色面=形態〉である。だから、印象派風の色彩とストローク、ホフマン風の色の強度による空間構成といった点を除けば、作画へのアプローチは初期具象絵画の頃とほとんど変わっていないと言える。具象と抽象で本質的にあまり変わりがないと言えば、ガストンの友人であったデ・クーニングもそうである。なかなかいい雰囲気にさせられる絵だけれど、構成のゴールはしばしば視覚的な像(ゲシュタルトによるまとまり)に依存している。なので画面全体としてはユルく感じられてしまう。なんだ、それがオチかよ、というような。おそらくこうした視覚的な像(ゲシュタルトによるまとまり)に支えられることを恣意的で主観的であると、そんな感じで嫌悪して、「主人」の視覚による作品支配を批判するものとしての具象へと向かったのではないだろうか。それはそれとして、だがガストンは、政治的批判が前提として含むはずの、それ自体での権威や価値といった問題について、どう考えていたのだろう、宿敵抽象表現主義と同一視され打ち捨てられてしまったのか、それとも別のアプローチから取り組んだのか。


*今日の画像はゾフィー・トイベル・アルプです