エイヴリー、ロスコ 〜珠玉のフィリップス・コレクション

argfm2011-10-27

●『Black Sea』(1959)、『Girl writing』(1941)ミルトン・エイヴリー(1885 -1965)


 閉じた輪郭を用いての色面構成やデフォルメはマティスから学んだのだろう。選ぶモチーフもマティスに似ている。ただし、モチーフは似ていても何を描くかはかなり異なっている。マティスには表現不可能と思われるようなものを描こうとする野心がある。たとえば夢を見ているときの感じなんかを、眠っている人を描くことで表現しようとしたりする。*1また、セザンヌフォーヴィスム・浮世絵・ピカソ・ボナール等々を通しての、色彩と構成に関する独自かつ厳密な理論の追及がある。熊谷守一マティスを評して、あんな分かりにくい画家はいないとまで言ったりしている。むろん、分かりにくいことと分からないこととは別のことであるが。
 さて、一方のエイヴリーは色彩にしてもデフォルメにしてもより趣味的である。ここで言う趣味とは趣味嗜好の趣味である。趣味嗜好は、身体の状態や周囲の状況・対象などから直接的に影響を受けるような享受の感覚すなわち味覚(嗅覚)や触覚を、水先案内人・裁判官とすることから成っている。だからだと私は思うのだが、エイヴリーの絵画にはコリャ俺は受け付けねーなと感じられるものがいくつかあったりするし、逆に、おおコリャ珍味と思うような色遣いに出会ったりもする。かなり人によって評価の分かれる画家ではないだろうか。人体の形の崩し方(デフォルメ)なども、カワイイ(食べちゃいたい)と思わせるようなものが多い。絵の具の使われ方は平塗りでもないし、モデリングともちょっと違う。そのいずれも兼ね備えてはいるがベースは触覚的なマチエール=タッチである。エイヴリーワールドは、ときにユーモラスでもあり、ときにちょっとエッチだったりする。ちなみに、ここでの私の目的はエイヴリーとマティスの間で雌雄を決することにあるわけではないので、誤解なきよう。
 『Girl writing』は、机の脚がなくて浮いているし、構想段階ではコワイ顔の置物が机の上に置かれていたようだし、本がないから勉強でもなさそうだし、床がフニャフニャしていることを併せ鑑み顔の赤さを恥じらいではなく作文に悩んでいるからだと解釈した上で、お尻とモモがちょっとお年頃な感じに描かれていることなどから、これは年頃の女の子が恋文をしたためているああ切ないわやり切れないわな人生の一コマなのだと思うが、しかし、顔の赤さには議論の余地がありはすまいかテーブルの処理はこれで完璧なのかと少々疑問も残る。イケる(食える)絵ではある。晩年の作『Black Sea』は、なぜここまで画面空間をぺったんこにしようとしたのか、ぺったんこ理論の影響なのか、元祖ぺったんこと声をかけられ奮起したのか、まあいずれも憶測の域を出ず、ちょっと私には分からない。これが分かったところで何が分かったことになるのかもよくわからないのではあるが・・。砂浜は砂浜であり、波もちゃんと打ち寄せている、つまりは抽象ではないにもかかわらず、果たしてこのぺったんこ効果は必要だったのか、疑問が残る。より‘食えない’方へと、すなわち芸術へと向かおうとしたのかも知れないが。




●『無題』(1968)マーク・ロスコ(1903-1970)


 最近の小学校では授業でフェルト作りを教えるらしいが、フェルトを作ったことのある人ならピンと来るに違いない。ロスコの色面とフェルトは作り方が似ている。小さく取った色(糸)の塊を、叩いて突いて色を(糸を)絡ませ、圧縮して押し固める。裏からも表からも糸(色)を絡ませる。たぶん、そんなわけでその効果というか、機能も似ている。ロスコの色彩は、下地の白に反射した光が画面上の色彩を通過して輝きを得るという伝統的な油彩とは異なり(むろんそれもあるわけだが)、絵の具の顔料それ自体がこもったような光を放つ効果を持つ。(フェルトの断熱機能、保温機能。)放熱(放光)ではなく保温(保光?)である。マーク・トビーもフェルトっぽいが、保温(保光?)効果といえばロスコ、である。(つづく)


*今日の画像はエイヴリー『Girl writing』です。

*1:たとえば、以下の論文を参照されたい。「マティスの布置---見えないものを描く」平倉圭 『ディスポジシオン 配置としての世界』現代企画室 所収