プレンダーガスト、エイキンズ 〜珠玉のフィリップス・コレクション

argfm2011-10-25

●『パッリア橋』(1898-99、1922)、『ファンタジー』(1917) モーリス・プレンダーガスト(1858 –1924)


 一見して、色彩の使い方がボナールにそっくり。なぜ突然アメリカにナビ派が?と思うが、プレンダーガストはフランスへの留学経験を持ち、留学中にボナールやヴィヤールらと親交があったらしい。かなり深い付き合いだったのだろう、色彩を用いる技術、それと、ヴェネチアへの憧れなどが共有されている。もっとも、ヴェネチア絵画に構成を学んだボナールとは異なり、プレンダーガストによるヴェネチアへの憧れは主題や色の選び方におけるそれだったように見える。水彩での色彩感覚に優れたものがある。(今回、水彩の展示はない。)
 ボナールもそうだが、プレンダーガストの色彩は、複数の色の組み合わせを反復することで得られる領域を一つの色面(閉じた輪郭)として扱うことに特長がある。彼らの絵画がパッチワークとか織物とかに喩えられるのはこれが理由である。こうしたパッチワーク的色面構成では、不協和音ないし和音のような色面へと組織された細胞としての個々の色たちが、閉じた輪郭を超えて様々に他の色と関係を持つ。三次元的なデッサンの空間を自在に超えて、そこに色彩の引力斥力から生まれる別の空間が現れてくるわけである。こうゆうのはボナールがずば抜けて上手い。プレンダーガストは様々な空間が現れることよりも、飛び火するようにして画面を飛び回る色彩の運動を好んだように見える。セザンヌゴッホ〜ボナールの系譜。
 今回の展示もそうだが、彼には勝ち組リア充の生活をモチーフとする作品が多い。同時代のアッシュカン派からは白い目で見られることもあったようだが、さもありなん。アッシュカン派を負け組の代弁者と見なすならば、プレンダーガストは勝ち組の代弁者に見えてしまうことだろう。今日のアッシュカン派も同様の態度に出るかも知れない。日傘や帽子がモチーフとして使いやすかったのは確かだろうが、彼の技法であれば必ずしもああした主題に限定する理由はないはずである。が、彼はそうはしなかった。ノンポリであり続けるとは難しいものである。




●『アメリア・ヴァン・ビューレン』(1891)トマス・エイキンズ(1844 - 1916)


 『The Swimming Hole』(1884-5)や『The Gross Clinic』(1875)、『The Agnew Clinic 』(1889)などの作品で有名なリアリズムの巨匠。教え子はいわゆるファインアートにとどまらず、漫画家、イラストレーターと幅広く散種。未だ道徳的に保守の色濃い当時のアメリカにおいて女性にも男性と同等の尊厳・権利を認めるよう主張し、女子学生に男性ヌードを描かせ、骨盤の動きについて説明を求めた女子学生の前で自らのパンツを下ろしたという伝説を持つ男。先人の苦労が偲ばれます。アメリカ美術史において最も重要な画家の一人とされる。写真家にして彫刻家、画家。パリ留学中にスペインまで足を伸ばし、ベラスケスに感動。特に『機を織る人々(The Weavers)』に感動した模様。
 エイキンズの作品がリアリズムと呼ばれる理由は、そのデッサン力はモチロン、他に先駆けて写真による視覚を運動の分析に用いたこと、趣味の拒否などといった点が挙げられる。物質として解体されてゆく自分を眺めているかのような、道徳的審級からの裁定を無効にするようなリアリズム。そこはバタイユなんかに似ている。加えて私は、直接現前していない某かによる実際の効力をモチーフに据えている点を挙げておきたい。たとえば有名な『The Gross Clinic』では、キャッと目を背ける女性の様子というよりも、これを無視しようと(否認しようと)している他の人々の様子こそがリアルである。見えない力が彼らをそうさせる。今回展示されている『Miss Ameria Van Buren』(1891)では、画面には描かれていない(現前していない)何かが彼女にこの姿勢を取らせているように見える。窓の外が気になるんですかと言うよりは、何か気がかりなことでもあるんですかと尋ねるべきと思わせるほどに、その某かは見えない。彼女の瞳をどれほど拡大して覗き込んだとしても、そこに映ったものに彼女が反応しているわけではない、つまり、彼女は自らの瞳に映ったものに注意を注いでいるのではない、そう確信させられる。(「実際に効力を持ってはいるが‘直接現前していない対象’」。)ここに表現されているのは、見えないが確かに働いている力のリアリティ。(つづく)


※今日の画像はプレンダーガストの『Afternoon Pincian Hill 』(1898-99)です。