ピッピン、ホッパー 〜珠玉のフィリップス・コレクション 

argfm2011-10-23

*10/25 一部改訂


 すもも画報にしては珍しいことに、今回は展覧会の話題である。私は最近、「すもも画報見てますよ」と声をかけられたのが嬉しくて更新を励もうとしているところだ。『モダン・アート、アメリカン 珠玉のフィリップス・コレクション』*1へ行ってきた。とりあえず、フィリップス・コレクションのサイトはこちら→http://bit.ly/ek9t45


『平和の王国(Peaceable Kingdom)』(1845〜6)(エドワード・ヒックス)


 会場に入ると真っ先に掛けられている絵がエドワード・ヒックスなる画家による『平和の王国』であり、イキナリ不安と期待を抱かされる。なぜか。この絵、画面手前には自然界の掟もなんのその、草食肉食を問わず動物たちが仲よく戯れる姿が描かれており、その背後には従順となった猛獣たちが、人間の子供たちと遊び戯れる様が描かれている。で、画面左奥へと目を転じると、アメリカ先住民たちが船から上陸したヨーロッパ人たちになにやら取引を持ちかけられている様子である。タイトルが「平和の王国」・・・となれば、エエッ!?と驚かずにはいられない。そう、これはもう、どうにも言い訳の利かない、我が世の春を歌い上げんと描かれた「ヨーロッパ中心主義」絵画である、ように見える。ヨーロッパ絵画の伝統的な構図を踏襲しつついかにもフォークアートな描きっぷりが作者の立場を明らかに示しており、時代の限界というものがあるのだとは言え、ここまであからさまに‘疚しくない良心’を証言している絵画を目の前にすると、今日を生きる人間としてはさすがにちょっとひいてしまう。
 いったい何でこんな絵が一番最初に掛けられているのか?とも思ったが、ちなみに聖書*2の一場面になぞらえつつここに描かれた「ヨーロッパ人」のモデルは、ペンシルバニア州の創設者ウィリアム・ペンという、当時としては比較的公平に先住民と付き合ったとの評価を残すクエーカー教徒であるようだ。「ペン伝説」の真偽の程は今となっては確かめようもない。が、画家の意図は、アメリカ合衆国憲法における民主主義の確立に対して影響を与えたとされるペンのエピソードを知ることで初めてはっきりする。この絵が掛けられているのは、アメリカの良心としてのペンに心寄せてのものだろう。多少とも情状酌量の余地はなくもない。
 展覧会の意図としては、この絵を冒頭に掲げることによって、かつてこんな絵が描かれ得たという残酷な事実の提示、それこそがリアリズムだと示したいわけではないだろうし、これ以降の展示でアメリカ人による自己批判の歴史が開陳されることになるわけでもないだろう。アメリカ史の幕開けと展覧会の幕開けを掛けたというだけのことなのだろう。とは言えしかし、この絵が展覧会全体に対して、アメリカの歴史(建国と発展)に対する先住民たちの視点による評価という試練を与えることになったとしても、致し方あるまい。今回の展覧会に何点か見られたアメリカバンザイみたいな絵は、かなり空気読めてない感が漂うことになるだろう。ちなみに、この作品『平和の王国』については、あまりに楽観的でなんのひねりもないプロパガンダでしかないため、芸術としては評価しづらく(受け取りがたく)、かつ、展覧会の中で社会学的資料として機能しているわけでもない、なんとも中途半端な印象を受けた。


 この絵のせいでヘンな空気の漂う中、ジェイコブ・ローレンス(Jacob Lawrence、1917-2000)のルポルタージュ絵画、アラン・ローハン・クライト(Allan Rohan Crite 1910-2007)による『ハモンド通りのパレード』、ホレイス・ピッピン(Horace Pippin 1888–1946)による『ドミノ遊びをする人々』は、コレクターの政治的な良心を証言する存在になっている。いわゆる「ブラック・アート」としてひとまとめにされての展示ではあったが、コレクターの良心はともかく、いずれも良い絵だ。技法的にはローレンスにややコンプレックス配色(夜配色)の傾向が認められることを除けばほとんど「ブラック」を感じさせないことが少々気にかかるが、ややこしい問題なのでここでは深入りせず、良い絵だとだけ言う。私はとくにピッピンが好きだ。ピッピンがイイ。今日の画像はピッピンです。彼らの名で検索すればwiki情報も画像も出てくるので、ご存知でない方はぜひ。




『日曜日(Sunday)』(1926) エドワード・ホッパー(1882 -1967)


 『日曜日』は画像では分かりにくいが、道端に腰掛けている男がかなり画面から突出して見えるように描かれている。おそらく男の部分には被覆力と反射率の高い白が下地に置かれ、その上で厚塗りの絵の具が置かれたのだろう。背景は緩く曖昧なタッチで描かれ、緊密なタッチで埋められた男に比べ薄塗りでかつ粗い。この落差によって、知覚される印象としては、男は画面から離れて別の場所に浮いているかのようにすら感じられる。
 色面の輪郭は明瞭だがベタ塗りではなく、モデリングの役割を担ったタッチが置かれており、描かれた対象に具象としての実在感が与えられている。主題と運筆において、ホッパーはマネ*3ドガロートレックらの系譜に連なる画家と言ってよいと思うが、構成においては別の流れを汲んでいるようでもある。この絵のやや緊張を帯びた静寂感は、アジェにも似た、人の気配を感じさせる要素一切を画面から取り去ったことによるものであろう。この系譜の画家たちは写真的な視覚から得るものが多かったのではなかろうか。チラシもなく、ゴミ一つ落ちていない不思議な街。背景とは別の次元に浮かんでいるかのような男。何ものにも反応を示しそうにないこの男は、まるで世界にただ一人取り残された人物であるかのようだ。つまり、言葉を失った・奪われた人物。政治的文脈からの批判的視線にも耐え得る作品だと、私は思う。(つづく)


※今日の画像は Horace Pippin による The Buffalo Hunt (1933 )です。

*1: http://bit.ly/fA5hpn 

*2:旧約イザヤ書11「平和の王」(「平和の君」)を参照のこと。

*3:さらに遡ればベラスケス