最近の展覧会から
ギャラリー*1の扉をくぐる前にまず、半地下にあるギャラリーへと降りる階段の最上段に、ちょこなんと揃え置かれた使い古しのスポーツシューズが目に入る。はっきり言って汚い靴であり、甲の部分の破損と摩耗が激しい。どこをどうすればこんなにボロボロになるのかと不思議に思うが、なんと、「あなたの靴と交換してください」との貼り紙が添えてある。絶対に、ヤダ。わざわざこんな廃棄確定の靴をもらっていかねばならない道理は無い。これは今回展示されている橋本聡の作品の一つ、『階段の上に置かれた靴』である。
今回、ncaギャラリーでは展示された橋本聡の作品すべてを販売している。パフォーマンス・イベントを活動の中心に据えてきた橋本の作品が販売されるということはこれまで無かったのではなかろうか。そしておそらく、橋本の今回の展示は作品を売るということを一つのテーマに据えての、思考実験なのではないだろうか。というのも、そう考えると、ここに並んだ奇妙な作品群に対して、通底した或る意図を見出すことができるように思われるからである。
たとえば、『不確定募金箱』なる作品がある。中が透けて見えるよう透明なプラスチックで作られた四角い箱、どこにでもある普通の募金箱である。ただし、募金のあり方が少々異なっており、募金の用途はこの作品を購入した者の恣意に任される、としてある。つまり、ここで為される募金は、いまだ目的の確かならぬ‘純粋募金’であり、作品を購入することは、善意ゆえかイタズラ心ゆえかとにもかくにも喜捨ではあるところの‘純粋募金’に対し、責任を負うということである。募金が、無知なる我々献金者の意図を超えて、望んだ以上に、見事に活用されることもあるだろう。とは言え募金が、我々賢明なる献金者の意に反して、悪事に、望まれざる目的に使われることだってあり得よう。このとき、募金活動に応えた我々はいったいどのようにして、自らの行為に責任を持つことができるのだろうか。贈与(喜捨)の力が「負い目の感情」を生むと信じて「募金」するのだろうか?責任を取らんとばかり作品を買い上げるだろうか?(買い上げてしまえばしかし、自らの意志を超えて活用される募金の可能性を、「不確定」さを、失うことになる。)『不確定募金箱』によって、募金を巡る考察は、なにやら芸術を巡るそれと区別がつかなくなってくる。
次に、先述した『階段の上に置かれた靴』であるが、これも販売の対象になっている。ギャラリー内の視線から逃れて置かれたこのばっちい靴は、一体誰のモノなのか?誰のモノだったのか?「あなたの靴と交換してください」との貼り紙とその置かれてある場所が、今や元の所有者が誰であったのか誰にも分からなくなっているだろうことを暗示する。少なくとも、今ここで、このばっちい靴を目の前にしている私には、分からない。誰のモノとも知れぬ靴を、もはや身体の一部ですらある履き慣れた私の靴と交換する?私の靴は誰が履くのだ?誰のモノとも知れぬままどこへとも知れず履かれてゆくのか?切ない。この終わり無き負の連鎖を断ち切ろう、そうだ、この靴と私の靴を交換した上で、これを作品として買い取ってしまうというのはどうだ?だが、このアイデアは予め失敗に終わるよう定められている。というのも、作品を手に入れるためには、お金プラス「あなたの履いてきた靴」*2を差し出さねばならないとされているからだ。私の履いて来た靴が、またしても『階段の上に置かれた靴』にされてしまう可能性は否定できない。では無視するか?見なかったことにしようか?何も無かったことにしようか?『このことは知らぬふりをすると約束しますか』とは、かつて発表された橋本の作品タイトルであるが、そうだとも、「知らぬふり」を決め込もう。だが、この試みもまた失敗を運命づけられている。というのも、「見なかったことにする」あるいは「知らぬふりをする」という行為自体が、作品の存在を、切なさの連鎖が存在し続けることを、証し続けることに他ならないからである。『階段の上に置かれた靴』は、私の内面深く、誰からも見えないところに巣くってしまうことになるだろう。
作品を観ることと作品を作ること。誰のモノかも分からない身体の一部と交換される、その返礼すら期待できぬままに差し出される誰のモノかも分からないものとしての私の身体。この行為の連鎖を止める術はなく、その存在を無かったことにすることもできないという状況(シナリオ)を、販売という手段を利用して、『階段の上に置かれた靴』は表現している。(つづく)
*1:http://www.nca-g.com/exhibition/ 「Identity VII ゆっくり急げ」 作家:木村太陽、豊嶋康子、橋本聡、ブラッドレー・マッカラム&ジャクリーヌ・タリー キュレーション:住友文彦 会場:nca | nichido contemporary art
*2:プライスリストの表記を参照すると、「履いてきた」は「きた」と記されてあり、したがってこの語の解釈は複数あり得る。「あなたが今日まで履いてきた靴」の意と、「あなたがここへ来るために履いてきた靴」の二通りの解釈があり得る。が、ここでは後者の意すなわち、‘ギャラリーに履いて来た靴’の意に解釈しておく。そうでないと、ワケがわからなくなるからである。