経験し得ないものを経験することについて(6)

(つづき)
 合法性から倫理への転回は、「他なるもの」の到来に懸かっている。デリダに拠れば、他なるものの到来は読解(法を読むという行為)における責任と自由の発生を意味する。「応答」し、「交渉」せねばならない。さもなくばそれは責任ある読解とは言われ得ない。決断は他なるものとの交渉から、他なるもの(自分のものではないもの)としてやってくる。線をつなぐことや意図的な転用などは問題たり得ない。つながる(つながってしまう)ことのみが、決断を迫るような問題たり得る。しつこく繰り返すことになるけれども、私はこうしたデリダの論説を支持している。私の疑問は、だが、法(すなわち「読解可能性」)および「枠」を、どのように考えるのかという点にある。批判と言うことにためらいを覚え、むしろ疑問という言葉を使うのは、私の目論見がデリダの論説を拡張することにあるがゆえにである。ここでの問いは、もうとっくにデリダの研究者達や今日の哲学者達の間で議論が進められているのかも知れないし、あるいは、とっくに終わった議論であるのかも知れないが、残念ながら、私は哲学という制度の門外漢であり、失敬にして恐るべきことにフランス語を読むこともまたできない、「田舎の男」なのである。取るに足らない議論であったとすれば容赦願いたいが、しかし、一方で、当ブログでの論考にとって、以下に述べるような疑義を提示しておくことは必要不可欠である。
 『先入見----法の前に----』において、法と文学を接続し、(それらをつなげるというよりは)法と文学が不可避的につながっているという事態を我々に認識させるための契機は、著作権に求められている。ここではデリダのテクストに沿って、著作権を、排他性もしくは相対的占有権という意味で用いる。「作品」の一貫性も存在も、著作権なしにはあり得ない。したがって、デリダに拠れば、法によって定められた制度に支えられることなしに、「作品」の変更不可能な不可侵性もない、ということになる。(本当だろうか?)ここで、著作権と「枠」(「表題」)は重なり合う。「枠」(「表題」)によって、作品は合法的に或るジャンルに登録される。つまり、「枠」(「表題」)は、ほとんど‘国民’に認められた基本的人権のようなものであり、社員にとっての労働基本権のようなものである。デリダが文学と法の歴史を並べることで我々に喚起させようとしているのは、こうした事態である。
 「枠」(「表題」)は、「どんなことでも一切を言ってよい権利」を原則として保証する。デリダに拠れば、これこそが(近代以降の)文学の特権であり、他の芸術から文学を区別する。ところで、そして、私がデリダの論説についていくことを諦めるのは、この文学の特権という点においてである。というのも、「どんなことでも一切を言ってよい権利」が文学にしかないというのであれば、結局のところ、デリダは「読解可能性」および「反復(覆)可能性」による立法ないし法を超出する運動の可能性を、一般的に文字言語とされるものにしか、かつ、その‘内容(言わんとすること、志向性)’においてしか、認めていないのではないかと、結論せざるを得ないからだ。デリダに拠れば、フィクションとしての真実を生産することができるのは、立法することができるのは、「文学」のみである、ということになる。(そして、デリダのテクストはつねにいくらかは文学であるとデリダ自身が語るとき、デリダにとっては、〈哲学=文学〉のみが、真実を生産するのだと考えられているのだろう。)私の疑義は単に文学以外の芸術を擁護する、という点に基づくのではない。そうではなく、デリダの言う‘立法’(「ねばならない」)をどのようなものとして考えるのか、という点にこそある。なるほど、実定法が、事実、或る「固有言語」によってしか書かれていない以上、実定法をめぐる闘争は固有言語において為されるほかないとも言える。法/権利の主体となるためには、法が書かれた固有言語を理解し、話すことができるのでなければならないし、自らを当の固有言語によって送り届けることができるのでなければならない。ショパンノクターンを演奏であれ楽譜であれ法律として採用することはできない。確かに、その通りだろう。この文脈において、或る固有言語(ここでは‘いわゆる文字言語’)で‘書’かれる批評の役割の一つは、他の固有言語によって書かれたものを或る固有言語へと「翻訳」するという点にあるのかも知れない。(たとえ同一の言語で書かれていても、詩の言語と批評の言語は異なる。)いずれにせよ、結局のところは、‘政治’は固有言語においてしかあり得ない、ということになるだろう。だが、そのことは、「立法」ないし「正義」が、或る固有言語においてしかあり得ないということを意味しない。
 「枠」(および「指向的構造」)によって、我々は(作品は)「法を作る力」を得る(「ねばならない」の普遍性を吟味に供する力を得る)。だが、「正しく」あるためには、我々は自らの法の「不正義」を知り、これに答えるのでなければならない。我々が不可避的につながっている(‘つなげる’のではなく)限りにおいて、我々の「不正義」を我々に教えてくれるものとは何か、それが、我々の法を理解しないものたち、である。法が「固有言語」で書かれざるを得ない以上、そこにはつねに、法を理解しないもの達が、法/権利の主体となり得ないもの達(「サバルタン」)が存在することになる。たとえば、「動物」や「植物」、「石」などは法/権利の主体ではない。主体として承認されず「動物(単に生きているだけの者)」、「単なる生命」としての扱いを受ける「主体/隷従者」。ここには、「外国人」や「子供」も含まれる。では、そうであるならば、「単に生きているだけのもの」ないし「単なる生命」を尊重することなしには、正しくあろうとすることもまた、できないことになるだろう。*1したがって、「枠」(「表題」)の権利とは、‘人間性という尊厳’でもないし、‘利潤’ないし‘幸福’を追求する権利でもない。「枠」(「表題」)が命じる不可触・不可侵性が意味するのは、「単なる生命」という権利であり、「単なる生命」への尊重である。「単なる生命」であること、デリダに拠れば、それこそが感性的存在としての受動性という自由を保証する。つまり、他なるものの到来という可能性を開かれたままにする。「単なる生命」への尊重なしに「正義」もない。法/権利の主体が、常に既に「単なる生命」でもある以上、「枠」(「表題」)は、常に既に、「単なる生命」すなわち法/権利の主体とはならないものを、そこに囲い込んでしまっている、ということである。「枠」(「表題」)において尊重されねばならないものとは、「枠」(「境界」)であるところの「コーラ」である。デリダに拠れば、「コーラ」とは、何一つ固有のものを持たず、不定型なままにとどまるという固有性しか具えていない或る場のことである。コーラとは、主題でも支持体でもない、コーラの上に自らを書き込みにやってくるものの総体ないしプロセスである。したがって、コーラについては、特異な非固有性という逆説的な形容こそがふさわしいと、デリダは言う。*2
*3
 まったく異存はない。だが、一方で、デリダは、「単なる生命」を「どんなことでも一切を言ってよい権利」と同一視する。そして、だからこそ、文学は他の芸術から区別される或る特権的な使命を担っていると見なされるのである。デリダに拠れば、文学なしに民主主義はないし、民主主義なしに文学はない。文学の可能性とは、「全ての問いを提起する権利、あらゆる独断論教条主義を疑う権利、一切の予断、前提を、たとえそれらが倫理の前提、もしくは責任の政治学の前提であったとしても、分析する権利というような、無制限な権利と並んで進むものなのだ。」、とされる。だが、ここには飛躍がある。というのも、「単なる生命」が‘受動性’という可能性であるのなら、あるいは「コーラ」であるのなら、それは「どんなことでも一切を言ってよい権利」ではなく、むしろ、‘どんなことでも一切が起こってよいという権利’でなければならないからである。(むろん、良くも悪くも、である。)こと読解という局面において、デリダが「どんなことでも一切を言ってよい権利」を、‘どんなことでも一切が起こってよいという権利’(「同形意義」の可能性)として解しているとしても、だとすればなおのこと、だがしかし、それは文字言語のみに、したがって文学のみに許されたものではあり得ない。「単なる生命」もまた、法/権利の主体である。(「ねばならない」に従う。我々は「単なる生命」による法のもとに、生活している。)そしてこのことは、デリダ自身が自らのテクストの中で示してきたことでもある。
 デリダの論説においては、彼による法と文学との間の同形意義へのこだわりのために(このこだわりについて、デリダは正しくも自らこれを正当化し得たとは主張していないし、「仮設」ないし「私の趣味」としか言わない)、そしてその脱構築的戦略という必然性のために、「枠」(「表題」)は法的制度のもとに包摂されたままである。言い換えれば、デリダの文学論は法/権利の主体である者の側から、考えられている。だが、「なぜ、作者ではない誰かが作者ではない他者に向けてこれを送り届ける必要があるのか」という問いは、法律や枠組みに基づく唯一性に拠ったところで、たとえそうしたものを前提としなければならないときであっても、答えることはできない。これこそ、デリダが教えるところのものであったはずである。「枠」(「表題」)によって法/権利の主体であることを保証されるに先だって、‘それ’が法であることを、そしてまた「正しくあろうと」するものであることを、示すことができるのでなければならないだろう。私は、こちらに賭けてみたい。法の主体に「汚染」を告知するのはよい。だが、「文学なしに民主主義はない」というデリダの主張は、とうてい納得できるものではない。(終わり)


プリンツホルン・コレクションより
MARIE LIEB 1894

*1:下らなすぎるので触れたくなかったが、行きがかり上触れておくと、「なんとか☆ラット」などというものが非-倫理的であるのは、こうした理由からである。それは徹頭徹尾、或る特定の共同体の法のために、作者という名の法/権利の主体のために、捧げられている。

*2:コーラについては、以下の文を参照されたい。中略を含む抜粋にて引用する。「さてそれでは本論に帰って、万有についての今度の出発点は、前のよりももっと分類の規模を広げたものにしましょう。すなわち、あの時は、われわれはただ二種のものだけを区別したのですが、いまはそのほかに第三の種族を明らかにしなければならないのです。というのは、前の話題では、あの二つのもの--つまり、一つはモデルとして仮定されたもの・理性の対象となるもの・つねに同一を保つものであり、第二は、モデルの模写に当たるところのもの・生成するもの・可視的なものだったのですが--この二つだけで十分間に合っていました。・・しかし今は、議論の方がわれわれに、とらえどころのない厄介な種類のものを、言論によって明るみに出すようにつとめろと迫っているらしく思われます。・・いったいどのようなものを、火よりもむしろほんとうには水だと言わなければならないのか、また、どのようなものを、何にせよある一定のもの--つまりそれを(同時に)全部のものとして言うのでもなく、順番に個々それぞれのものとして言うのでもなく、それよりもむしろある一定のもの--だと言えば、何らかの信用のおける確実な言葉を使ったことになるのか、これは厄介な問題なのです。・・まず第一に、われわれがいま「水」と名付けているものも、--とにかくわれわれの思っているところでは--凝固すれば石や土になり、融解したり分解したりすると、この同じものが今度は風や空気になり、空気が燃え上がると火になる、といったことが見られ、また逆に、火が凝集して消えて再び空気の形へと帰って行くのが見られ、空気がもう一度集まって濃密になると雲や霧になり、後者がなおもっと圧縮されると、そこから流れる水が生じ、水から再び土や石が生じて、こうして--とにかく外見では--それらが互いに回り回って生成を与え合っているのが見られます。」引用抜粋 『プラトン全集12』より『ティマイオス種山恭子訳 岩波書店

*3:「そこで、事情が以上のようだとすると、次のことに同意しなければなりません。すなわち、まず一つには、同一を保っている形相というものがあるのですが、これは、生じることも滅びることもなく、自分自身の中へよそから他のものを受け入れることもなければ、自分の方がどこか他のもののなかへ入っていくこともなく、見えもしなければ、その他一般に感覚されることもないものなのでして、じっさいこれは、理性の働きがその考察の対象として担当しているところのものなのです。そして、以上のものと同じ名で呼ばれ、また以上のものに似ているものが、二つ目です。これは、感覚され、生みだされ、いつでも動いており、ある場所に生じては、再びそこから滅び去っていくものなのでして、思惑によって、感覚の助けを借りて捉えられるものなのです。そして、更にまた三つ目に、いつも存在している「場」の種族があります。これは滅亡を受け入れることなく、およそ生成する限りの全てものにその座を提供し、しかし自分自身は、一種のまがいの推理とでもいうようなものによって、感覚には頼らずに捉えられるものなのでして、ほとんど所信の対象にもならないものなのです。そして、この最後のものこそ、我々がこれに注目する時、われわれをして、「およそあるものはすべて、どこか一定の場所に、一定の空間を占めてあるのでなければならない、地にもなければ、天のどこかにもないようなものは所詮何もないのでなければならない」などと、寝とぼけて主張させる、まさに当のものにほかなりません。じっさい、われわれはこうした夢見心地の状態にわざわいされるために、寝とぼけていては把握できないような、真に存在しているものについても、眼を醒まして、いま挙げたような区別のすべてや、その他これに類した区別を立てて、真実を語ることができなくなるのです。」『プラトン全集12』より『ティマイオス種山恭子訳 岩波書店